吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
吉浦八幡神社の10月の例大祭はかつてこの時期に渡り蟹が多く捕れたことで、吉浦カニ祭りと呼ばれるようになりました。カニ祭りには、さまざまなおみこしや笛太鼓などが繰り出ますが、鬼も出没します。カニ祭り3日目には、鬼廻りといって、小学校や保育園などにもいろいろな鬼が現れます。(吉浦東本町の第二公園で)
カニ祭りに出没する鬼は、夜中でも、昼間でもわけへだてなく出てきます。吉浦本町商店街のアーケードの下では、「よっこらしょ」と、鬼の面々が腰をかがめて休みました。(吉浦本町で)
鬼一同が最終的に集まるのは、夜の吉浦八幡神社。大人でも、オドロシイ感じがします。(吉浦西城町で)
神社境内にたむろする赤鬼、青鬼、白鬼・・。カニ祭りでは、各自治会が繰り出す趣向をこらしたおみこしや笛太鼓列を先導します。露祓いの意味があるんですね。時には、路上で幼児を突然抱っこすることもあります(吉浦西城町)
一本足の高下駄を履き木の葉がついた杖をもつ鼻高天狗と、黒棒をもち二本のつののある赤鬼が、「悪い人は追い出すぞ」とばかりに、あたりを警戒しているように見えました(吉浦八幡境内の二の鳥居近くで)
吉浦の魚見山のふもと吉浦潭鼓町(たんこちょう)に、荒神社跡地の石碑が建立されています。現在では、荒神社は吉浦八幡神社の境内に移転遷座されています。
潭鼓町にゆかり深い荒神社の跡地は、もう人の訪れることもなく、歴史を秘めたまま、ひっそりと石碑だけが建っています。かつては細い急坂を歩いて、ここに善男善女が参詣したことでしょうが、もう今は昔。あたりは、人家もありますが、石碑のすぐ後ろは、畑地になっていました。
吉浦東本町の路地を歩いていると、白壁の屋根に沿って、みごとな紫の花が垂れ下がっていました。空の青と藤の紫のとり合わせに、何か得をしたような気持ちになり、しばし足をとめて見入りました。藤の花といえば、江戸時代の作陶家・野々村仁清の「藤花文茶壺」(MOA美術館蔵・国宝)を思い起こしました。
吉浦の街なかは、くもの巣のように、細い路地がいっぱいあります。そういう路地巡りの散歩は、気分を爽快にしてくれます。藤の花が咲く頃は、紫の花房をみあげながら、ゆっくりこの細道を通りぬけるのが楽しみにです。向こうの山は、魚見山連山の一部。
山頂にたつ標高127mと記された道しるべ。
呉市の吉浦八景ホームページには、魚見山が紹介されています。それによれば、<昔,山頂から,魚群の到来を監視し,漁をする仲間に伝えたといわれている山,物見山とも言う。標高178m。頂上付近の八畳岩の西端の下に、「満ち潮」の時には海水が湧き出ると言い伝えられる「潮見の穴」という岩がある>と書かれています。
魚見山からみた吉浦の街並み。右側の街なかに吉浦小学校の体育館がみえます。左側の海は吉浦湾。この魚見山の下には、二つのトンネルが通っています。ひとつは、JR呉線。もうひとつは国道31号線。魚見山は何度登っても、景観がすばらしいから、また登りたくなる山です。
吉浦八幡神社の境内からみた魚見山の全景。
吉浦は、魚見山、鉢巻山、茶臼山、つばくろ山、火山(ひやま)の五つの山に囲まれています。
吉浦五山の中で、魚見山は、吉浦小学校の校歌「魚見の山の朝明けに 登る朝日の陽を浴びて 強く正しく朗らかに 真理求めん学び舎に」で歌われています。右の白い建物は小学校の体育館。体育館には、舞台横に吉浦小学校校歌が掲額されています。
近所の懇意な人から、井戸水で鯉を飼っているというので、見せてもらいました。いるいる。広い池に、カラフルな色の鯉や、単色の鯉…。緋鯉、錦鯉などが同居していました。休むことなく井戸水を池に注いでいるということですから、相当の水量でしょう。湧き水という井戸だからこそ経済的に飼えるのでしょうね。水道代に換算したら、さぞや大変な額と思ったことでした。ともあれ、の~んびり、ゆうゆうとして動く鯉は、見飽きることがありません。おだやかな動きと姿は、最高の癒しになると感じました(吉浦本町で)。
井戸は工夫がこらしてあり、地面と同じようにフラットにしてありました。これは通りやすい。邪魔にならない。生活の知恵を、井戸に有効にいかしていると大いに感心しながら、フラットな井戸を通り抜けました。
井戸は家に一つなのがフツーですよね。ところが、コイのいるここのお屋敷では、フラットな井戸のほかに、どっしりとした石囲いの井戸もありました。聞けば、ず、ずーっと昔には、もう一つ、つまり全部で3つも井戸があったそうな。
吉浦の井戸を巡る散歩は、楽しさ面白さを覚えます。
吉浦新出町を歩いていたら、川の流れに沿って二つの表示板がありました。近づいて見ると、「崩壊危険区域」と、「笠岩川」の表示板でした。たしかこの川は神賀川の筈だが・・。
世の中に、一本の川であっても、複数の名前をもつ川ありますよね。たとえば信濃川と千曲川。紀の川と吉野川しかり。だから、吉浦の街を流れる神賀川も、このあたりでは笠岩川と呼ぶのかなと思ったことでした。ところが違うのです。画像は神賀川です。写真では見づらいけれど、中央上の、茶色の鉄の橋のところに、笠岩川のあることが分かりました。ということは、神賀川に複数の名前はないということです。散歩していると、こういう面白いことに出くわすのが楽しい。
吉浦新出町12地区の地形図。青色が河川水路で、Yの字になっており、二つの川が合流していることが分かります。
この表示板は、笠岩川が土石流危険渓流であることを示しています。
中央の川が笠岩川。右上から左下へ斜めに流れるのが神賀川。川底の石畳みの模様を見入るのも楽しい。笠岩川が神賀川に合流する流域の吉浦新出町で。
笠岩川のそばに建っている「砂防指定地 笠岩川」の表示板。真ん中に浮き立つように描かれている白色がこの表示板の位置で、青色が渓流で、その渓流の中に横になった黒いT字のようなしるしが砂防ダムで、と絵ときができました。現地に佇んでみて、初めて納得できる案内図なんですね。
この笠岩川の名前は、だれが付けたのか、いつごろ命名したのか。笠岩川のことを調べてみようと思います。興味深いことを調べるには、呉市立図書館か、市役所に足を運ぶのが、調査の早道かな・・
笠岩川の上流
吉浦新町二丁目に、「池の浦」バス停があります。このバス停こそ、映画「海猿」で、仙崎大輔と伊沢環奈が雨宿りするシーンにでてくるところです。
なんの変哲もないバス停ですが、映画に出てきたバス停なら、ちょっと寄って、座ってみようという気になります。
「池の浦」バス停に並行して、JR呉線があります。この吉浦住宅踏切で、消防車が放水して雨のシーンを演出したということです。
気持ちのよく晴れ渡った青空に、青色、赤色、黄色、桃色、緑色のユニークな手作り鯉のぼりが、ふうわりフワリと泳いでいます。青葉若葉のこの時期には、通りに面したこの大心保育園の広場で、鯉のぼりを楽しめます。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、保育園は休園になっていますが、コイのぼりは、天空に向かって泳いでおり、道行く人の心をなごめていました。(吉浦中町で)
道路はさんで右側の黄色の建物が、大心保育園。保育園の向い側に、コイのぼりが泳いでいました。
洪水、高潮、津波などによる一時指定避難所があるのを知ってますか?吉浦では5カ所にその施設があります。吉浦まちづくりセンター、勝法寺、誓光寺、吉浦小学校、そしてここ吉浦集会所。標識をしっかり認識することが大切です。吉浦集会所では、指定避難所といっても、地震と津波では避難できません。土砂、高潮、洪水の時に受け入れてもらえる、ということです。標識には、指定避難所ということが、日本語、英語、中国語、韓国語、ポルトガル語で表記してあります。
駐車場が完備している県道278号線沿いにある二階建ての吉浦集会所。
海抜は17.3mなんですね。風水害時緊急避難所という赤い標識が、玄関横に貼ってあります。
集会所の広場には、藤棚があります。咲く季節になると、薄紫の藤の花が垂れ下がり、心がなごみます。
吉浦郵便局に切手を求めに出かけました。普段は赤い郵便ポストがあっても、目にとまることはありません。ところが、オヤッと一目をひきました。ポストに真鯉と緋鯉の鯉のぼりのシールステッカーが二組はりつけてあるからです。白っぽい雲までつけてありました。子供の健やかな成長への願いが伝わってきました。そして、右下のには、端午の節句に食べる柏餅のステッカーがふたつ。「五月五日はこどもの日」と赤い文字ありました。郵便局の乙な心になごみました。
町内には、赤いポストがあちこちに設置されていますが、鯉のぼりのあるポストは、吉浦郵便局前のポストだけ。見ていると、楽しくなってきますよね。
お父さん、おかあさん、こどものミニミニ鯉のぼりっていうのでしょうか。それぞれに背びれがついているだけでなく、竿には矢車があるだけでなく、青空と白い雲まであしらっているこまかい配慮。感心しました。(吉浦中町で)
呉の港からフェリー連絡船に乗って、江田島の小用に向かいました。船上から人口約1万人の吉浦の街を眺めることができました。屏風のような山並み。海岸ちかくの高層マンション。民家もびっしり。クレアラインの高架道路も目にはいるパノラマ。
吉浦の外から眺めた吉浦は、里山があり、里地があり、里川が流れ、里海のあるロマンな街だとあらためて感じました。
園児らがつくった楽しい鯉のぼり。ウロコをよくよくみると、園児らが描いた子鯉なんですね。なんともユーモアにみちた鯉のぼりだこと。
グルグルと丸い色のついたウロコは、目を表わしているのでしょうか。いろんなことを想像させてくれますよね。
園庭にピンと張ったロープに、園児らの合作の鯉のぼりがのんびりと天空に舞うさまが楽しいですね。
今年は、新型コロナウイルスの感染防止のため、休園のやむなきにいたっています。例年は、5月5日子どもの日に相前後して、幼稚園のベランダに鯉のぼりがはりつき、園児のすこやかな成長を寿ぎます。
近づいて、把手を持ち上げてみると、やっぱりきれいな水が、たっぷりとたまっていました。これは井戸というより、大きな泉といったほうがよいくらいの囲い水が見えました。
石段を上がって、高い路地から下を覗き込んでみました。位置を変えることで、大泉の水がよく見えました。 吉浦の街は、畑や庭や路地の脇などで、ポンプのある井戸や、コンクリートの筒状の井戸や、このトタン下の大泉のような湧き水の光景を、よく見かけます。水道が完備している街ですが、大泉を見ていると、水の節約、天然水の活用、省エネなんてことが頭に浮かびました。
JR吉浦駅前に、吉浦本町アーケード商店街があります。そのアーケードを過ぎたすぐのところに、人目をひくものを見かけました。鯉のぼりです。自動車や、人が行き交い、陽も照る目抜き通りに、長い胴体を縮めて、ビニールでくるまってる緋鯉の鯉のぼり。寸足らずの姿が、なんともおもしろく、愛嬌を感じます。この時期になると、毎年店頭に飾ってあるんですよね。目の保養によろし。こどもの成長を見守る鯉のぼりに、心がなごみます。
山並みの左側の少し高い所が、火山(ひやま)です。吉浦の史跡マップには、「藩の直轄地で、御建山(おたてやま)ともいわれ、官有地である。藩が必要な時だけのろしを上げたという。この山の南端・かれい崎に、<お菊のガンギ>という伝説の岩がある」と記されています。ガンギとは階段のことで、お菊岩にまつわる悲恋物語の名所。かるが浜海水浴場から磯伝いに、お菊のガンギといわれるところに行こうとしたら、海上自衛隊呉造修補給所貯油所の鉄条網が張り巡らされており、近づくことはできませんでした。
左側のうすい山並みは、江田島。吉浦池ノ浦町の高台から眺めてみました。
吉浦湾を形づくる山並みの先端が、標高109.6mの火山(ひやま)です。魚見山とおなじように、のろし台として知られています。標高は、広島県砂防課「土砂災害ポータルひろしま」の地図に、表示されていました。
吉浦の街は、五つの山に囲まれています。すなわち西側から、①火山(ひやま)連山、②つばくろ山、③茶臼山(別名・城山)、④鉢巻山、⑤魚見山。山の頂上から吉浦の市街が見渡せるのは、よしうら五山のなかで、茶臼山と魚見山です。
「上を向いて歩こう」という歌がありますよね。吉浦中町の、とある道路を歩いて見上げると、なんとも気持ちのよい「吹き流し」と「鯉のぼり」が、青空に浮かんでいました。金太郎が乗っかてる真鯉、色あざやかな緋鯉、天空よりも青い子鯉・・・吉浦の街は、コイの季節をむかえました。5月5日の子どもの日前後は、吉浦の街なかの、あっちこっちで、コイのぼりをみかけられるのが、楽しみです。
吉浦漁港に近い吉浦新町では、民家のベランダから、鯉のぼりが泳いでいました。
大きく口を開けて、清い大気を吸い込んでいる「吹き流し」と「鯉のぼり」を見ていると、元気がもらえました。背景のマンションふうのビルは、海上自衛隊呉造修補給所貯油所の隊員用の14階建て吉浦宿舎。
吉浦本町の民家で見かけた鯉のぼり。やっぱり、鯉のぼりは、青空が似合いあすよね。青い海も連想させてくれるし、子どもの健やかな成長を願う心が、通る人の心にもうつります。
吉浦小学校の近くの路地で見かけた鯉のぼり。天気がよいから、おフトンも干してありました。鯉のぼりは、さわやかな季節を感じさせてくれます。
吉浦松葉町の観音堂から山の手に向かう細い坂道を踏みしめながら、歩きました。こんもりと緑の葉が茂るツツジの上に、にこやかな、愛嬌のある大きなシェフ像に出会いました。「へーい、元気かあ。滑らないように気を付けてね」なあんて声をかけられたような感じがする肉付きのよいイタリアのシェフ ・ ロ ・ カーポ像。親しみのこもる表情に、話しかけてみたくなりました。こういう意外性の出会いが、散歩の楽しみでもあるんですよね。
シェフ像の立ち位置は、かなり高い所なんですね。左上に居るでしょう。わかりますかあ。細い路地坂道を上ったり下がったりする時に、目につきます。
ちょっと見る位置を変えると、趣がこれまた少し変わって見えます。吉浦の路地って、愉快な「モノ」によく出会えます。(吉浦松葉町で)
墓地のすぐ横を流れる渓流に立つ「横尾川」の表示板。川の名前の表示よりも、「土石流発生のおそれがある」ことを示すほうに重きを置いているのが分かる。長年の日照りや、山の湿気、寒暖などで、表示板がいたみ、文字がかなり消えかかっている(吉浦新出町で)
横尾川の河口は、手前の神賀川に流れ込む。
一般の人が、川に沿って歩けるのは、ここまで。砂防堰堤(えんてい)で行き止まりになる。川底は石組みになっているが、雑草の茂りや葉っぱがあってよくわからない。
この横尾川のように、吉浦の神賀川に合流する川は、ほかにも笠岩川、宇根川がある。
横尾川のすぐ近くの谷間で、2018年の夏、西日本豪雨により土石流が発生し、流木や岩が墓地に流れこみ、道の両脇にあった約100墓が見当たらなくなった。
街なかを練り歩き、吉浦八幡神社に上がってきた酒樽を積んだ10区自治会の御神酒みこし。威勢のよい掛け声に、参詣した人たちが取り巻き、にぎわう。吉浦カニ祭りは、秋10月の第一日曜日とその前後あわせて3日間行われます。おみこしでにぎわうのは、第一日曜日です(吉浦西城町で)
吉浦本町のアーケード街は、カニ祭りの3日間、歩行者天国になります。出店がずらりと並び、呉名物のイガ餅、ヨーヨーすくい、わた菓子、おもちゃ、やきとり、とうもろこし、金魚すくい・・。大人も子どももワクワクするのが、お祭りの露店・夜店です。このアーケードを、ちょうさいや、神龍などのおみこし、鉦笛太鼓の列が通ります。(吉浦本町で)
よーくねらって撃つんだよっ。ほしいものに照準を合わせ、棚の景品が倒れたらもらえる射的。親子が一心同体(?)で楽しんでいる光景を目にすることがあります。食べ物や遊び屋台の賑やかさは、カニ祭りならでは。
あつっあつっ、と感じながら、ほかほかのタイ焼きやタコ焼きを歩きながら食べたり、お土産に包んでもらったりするのも楽しみのひとつですよね。
バイキンマンのお面を頭にかぶり、夜のアーケードを歩く若人。ことしもまた夜店露店を覗くのが楽しみ。
童謡「通りゃんせ」をつい口ずさみたくなるような細道。ここは、行きもよいよい、帰りもよいよい、って言いなおす気持よい細道。誓光寺の正門前から地酒水龍蔵元の前を通って、第二公園を横目に見ながら、ほどなく行くと、この道に出るんですよね。遠回りになるけど、この美観路地を通りたいために、わざわざ散歩道にしています。
土蔵の足元付近は、黒と白の幾何学模様の「なまこ壁」になっています。継ぎ目の部分が、かまぼこ型のように漆喰で盛り上がっており、これが海の「なまこ」に似ているから、「なまこ壁」と呼ばれるんだとか。散歩するたびに、このデザインが目に入り、癒されます。
ちょっとはなれた同じ東本町の路地でも、なまこ壁を見かけました。
方角をかえて第2公園のほうから覗いてみました。年代ものの土壁を見ていると、歴史をちょっぴり感じました。
この建物は、びっしりとツタに覆われることがあります。そんなときに見ていると、こ、これ建物なの?、史跡?と、訝しむような思いになります。
吉浦郷土史研究会の「吉浦の史跡マップ」によれば、「用所とは現在の町村役場にあたり、社倉は凶作を救うために組合で設けた備蓄米保管倉。藩制時代の建物である。明治10年~25年には、小学校として使用されたといわれている」と記され、写真も掲載紹介されています。
神賀川の上流一帯には、市や寺の管理する墓苑があります。川に流れ出た「倶會一處(くえいっしょ)」と刻まれた文字の墓石をみました。(吉浦新出町で)
神賀川の石組みの川底にとどまる石灯篭の笠。上流の川底のあちこちに、墓石や墓碑が流れていました。お骨も流されたことだでしょう。悲しい。
大雨により、家の前に積みあがった泥と瓦礫(吉浦新出町)
泥流に埋まった軽自動車。後部ウインドーのガラスがなかった(吉浦新出町で)
巨大な岩石。どのようにしてここに流れ出てきたのだろう。どこにあった巨石なのだろう。ともかく、家をなぎ倒し、尊い人命も奪った雨の凄さが分かります。右側の瓦礫の中にも、大きな岩石がうずまっていました。2年たったいまでは、墓地は平地に、崩れた家は撤去されています。
大船みこしは、八幡神社の境内に入ると、手水舎のそばに建つ角丸神社にごあいさつをします。小さな祠だけど、宮花町にゆかり深い神社。この角丸神社の前を通り、吉浦八幡神社の神殿へと向かうのです。
八幡神社の拝殿に駆け上がって、鎮座ましますご祭神にごあいさつ・ご奉告する宮花子供会の小船みこし。
県道278号焼山吉浦線の路上からの眺め。平林川の石組みの美しさに魅せられる。吉浦の街なかを流れる川は12本ある。川巡りの散歩も楽しい。(吉浦東本町で)
平林川上流には、砂防堰堤(砂防ダム)が、デ、デーンと聳えている。名も知らぬ紫の花が目を引いた。
平林川の堰堤(えんてい)表示板。立ち入ったり、遊んではいけない。あぶない。危険の文字がオドロシイ。
平林川(右)と大川(左)の合流点。平林川が支流で、大川が本流ということなんですね。
上流には吉浦東墓苑があり、道路わきに共同井戸ポンプが据えられている。
吉浦八幡神社の参道から見た標高285mの茶臼山。呉市の「地域紹介 吉浦八景」のホームページには、茶臼山について、写真入りで、次のように記してある。
<志蕗山城ともいう。天分24(1555)年,矢野保木城(城主野間隆実)は毛利元就に攻撃され,落城した。茶臼山城主末永弥六左衛門隆道は,志蕗山城を開城。吉浦は小早川隆景の知行地となった。(小早川氏は吉浦の水軍が欲しかったのである。)>
吉浦の町並みを見おろす山容は、どっしりして形いい。左後ろは、烏帽子岩山。山ふもとにみえる横一直線の高架は、広島市と呉市を結ぶ有料道路の「クレアライン」。
4月の山頂には、山つつじが咲いて、登山の疲れが癒された。アカマツに標高285mと記されていた。
頂上はあちこち岩があるものの、比較的平坦な広場になっているところが2、3カ所ある。
毎年元日には、山のぼりが好きな地元の有志が登頂し、ご来光を拝し、「君が代」を斉唱しつつ、日の丸を掲揚する。
朝もやの茶臼山山頂から、吉浦小学校や、吉浦運動場、吉浦まちづくりセンター、高層マンションなど吉浦の街なみと吉浦湾を一望する地元の人たち。右手前方が火山(ひやま)で、左側に魚見山の裾野が見える。海上保安大学校の先に、大麗女島がぽっかり浮かんでいるように見えた。