吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
呉市の吉浦漁港に掲げてある「とれとれ朝市」のカラフル看板。JR呉線の車窓から、はっきりしっかり見てもらうための大看板。吉浦湾や近くの瀬戸内海でとれる鯛やタコ、チヌ、メバル、さよりなどの魚を扱う朝市が、吉浦漁港であります。地産地消ならではの豊かな海の幸を、覗きに行くのも、楽しいことです。(吉浦新町)
朝市会場の入り口には、大きなマグロ看板があり、まるで剥製のような楽しさを覚える。
早朝から催される朝市会場。にぎわう朝市では、とれたてのいろんな魚が並ぶ。大きないけすでは魚が泳いでいる。すぐ近くで扱っている天ぷらも好評。
活きのいいのが自慢の草創期の「とれとれ朝市」。新鮮な魚がずらり並ぶ。
見事な包丁さばきで、マグロの解体が進む。その場での切り売りが楽しみ。
呉市の吉浦八幡神社では、7月第3日曜日に、どろおとしという夏越大祓いが催されます。しかし、2020年は、新型コロナウイルスの感染防止のため、中止のやむなきにいたりました。茅の輪くぐりには、境内の石鳥居にもうけられ、作法にのっとり輪をくぐる厳かな神事。一人で、家族で、恋人同士で、とさまざまに地元の人たちが訪れます。(吉浦西城町で)
茅の輪をくぐり、神殿で敬虔な祈りを捧げる参詣者。
罪や穢れを神様に落としてもらう「泥落とし」の夕方になると、三々五々に茅の輪くぐりに訪れる。
「どろおとし」の神事である茅の輪くぐりの意義を綴った案内文。
自治会掲示板に貼り出された2020年(令和2年)の「夏越え大祓い・茅の輪くぐり」中止の知らせ。
呉市吉浦には、国道31号線があり、その国道をまたぐ唯一の陸橋「吉浦横断歩道橋」が、化粧直しをして、見違えるようにきれいになりました。向こうのお山は、茶臼山です。
きもちのよい青空、緑の山並み、そして薄緑の吉浦横断歩道橋。橋の下には、神賀川が流れています。
手すりにとりつけてある青銅板には、「吉浦横断歩道橋」と記してあります。
天に向かってのびているような数十段の階段。まさに空をわたる橋といえます。上がり切ったら、赤茶色の道が、ほんのちょぴり盛り上がっています。
吉浦横断歩道橋をおりていくところに、神賀川がおだやかに流れています。吉浦湾に近いここらあたりは、満潮になると、水位がグンとあがり、ボラの子やフグの子が泳いでいるのをみかけことがあります。
JR呉線には、相当数のトンネルがあります。三方を山に囲まれた吉浦には、西側の海田方面に、第一軽貨トンネルがあります。広島駅に向かう3両編成の電車レッドウィングが、第一軽貨トンネルへ、まるで吸い込まれるように入って行きました。
吉浦と隣町の狩留賀町を結ぶ鉄道専用の「第一軽賀トンネル」を、吉浦側からみた光景。「狩留賀」という文字でなく、「軽賀」と命名されたのは、どういうことなのでしょうかね。
吉浦側の坑口に、「第一軽賀 L443.0M」の銘板が取りつけてありました。
第一軽賀トンネルの吉浦側坑口ちかくには、緊急連絡用の電話ボックスがありました。
おや、なんだろ。海に近い町家の前に、肌色のれんが構築物が据えてありました。近づいてみると、耐火煉瓦を組み合わせたピザ窯だと分かりました。二段の鉄製の扉がついており、赤茶色のような扉だったのでしょうが、使いこなしているうちに、薪の煙ですすけ、熱を浴びて黒く変化していました。下段で薪を焚き、上段でピザを焼くんですよね。T字型の煙突がたち、耐熱性にすぐれたレンガかまどを見ているうちに、ピザが食べたくなりました。
耐熱レンガを19段かさねた本格ピザ窯が屋外に備え付けられているのは、吉浦では、ここだけだと思います。こういうピザ窯ならば、バーベキューにも使えるし、燻製づくりにも使えるでしょうね。食べることばっかし考えていると、お腹がグウと鳴りました(吉浦新町)。
吉浦湾の海辺ちかくの吉浦新町を散策していて、おやっ、何だろうと、ひきつけられたのが、奇妙なレリーフでした。抽象的なデザインですが、頭、甲羅、手、足、尾があります。よぉく見ると、亀の浮き彫り、レリーフだと分かりました。
民家の壁の四カ所に、亀がピタッと張りついていました。ム、ム、ム・・・。趣きのある飾りに、行ったり来たりして、見つめました。
こちらのほうも直角な壁の正面と横に、亀のレリーフが二体あるのですが、なにせ雨樋があって、デジカメではちょっと写しにくいものでした。雨樋と壁の間から、亀の足部分が、ほんのちょっとのぞいていました。
家から離れて、全体を見ると、二階建ての軒下の壁に亀が張りけてあることが分かりました。四体を同時に見ることはできません。
亀のレリーフの奥まった壁沿いには、太い文字で、「石油店」とかすれていますが、読めました。昔は、石油の商いをしていたようですね。
すぐ近くに、吉浦湾がありますが、高い防潮堤のため、瀬戸内海は見えません。はるかむこうの島影は、江田島です。
水道水や市販のミネラルウォーターの普及で、井戸の水を利用するなんてことは、なくなってきました。だがしかし、吉浦の街なかでは、庭や畑や空き地、路上わきなど、あちこちで井戸を見かけます。コンクリートの蓋がしてあったり、物置台になっている光景もみます。
民家の軒先を補強した「つるべ井戸」の名残がありました。取りつけてある軒下の大きな滑車には、ロープがついており、いつでも使えるようになっていました(吉浦本町)。
つるべ落としの井戸は、水を汲み上げるのに力がいらないから、重宝です。滑車を備え付けた井戸の光景は、めったにみかけません。庭の水撒きや畑の水やりは、電動ポンプが普及し、井戸の蓋を都度々々あけなくてもすむようになってきました。
傾斜した棟の妻飾りに、鷹の木彫りが目を引きました。松の枝にとまっている鷹が、いまにも獲物に飛びかからんとする姿には迫力があります。昔から、松に鷹図は吉祥のしるしになっていますよね。50円切手や1000円切手にも松鷹図がありましたし、国宝二条城の障壁画とか、広重の軸絵などを連想させてもくれます。目が鋭く、前方を凝視する雄々しい鷹は、力強さの象徴であり、足をかけている松は生命力の象徴といわれています(吉浦西城町で)
宮川沿いの町家の前を通るとき、鷹に松の妻飾りを見るのが楽しみになります。
ノーベル文学賞受賞作家・川端康成さんの小説「雪国」に、<トンネルを抜けると雪国であった…>なる有名な文がありますよね。吉浦には、雪はほとんど降りません。この「落走隧道」を抜けると、何の変哲もない樹木と霞む山と空でした。
吉浦の山の手から隣町の長谷町に抜けるトンネルができたのは、今から30年まえの1989年のことなんですね。人も車も通れる対面通行のこのトンネルの名称が「落走隧道」。地元の人が行き来するくらいで、交通量は多くありません。(吉浦上城町)。
申し訳程度に、トンネル入り口に、「落走隧道」の小さなプレート板が取りつけてありました。
長さ178.メートル幅員は8.30m。歩道は一段高くなっており、白い鉄製パイプが、人道と車道を分けています。短いトンネルだから、非常電話とか消火器などは備わっていませんが、オレンジ色の電灯が灯っているいたってシンプルなトンネルです。
トンネル付近に、「落走隧道」という乗り合いタクシー「あじさい号」のバス停がありました。
こんもり茂った吉浦八幡神社の社叢では、春四月の第二日曜日に、御霊(みたま)なごめの慰霊祭が行われます。神社の祭主が祝詞を奏上し、参列者は敬虔な慰霊の誠を捧げます。2020年は新型コロナウイルス感染防止のため、中止になりました。(吉浦西城町で)
忠魂碑のまえでは、町民が集うなか、古式ゆかしく厳かに舞いを奉納する巫女。
巫女舞いによる御霊(みたま)なごめは、かつての戦争で散華した英霊をやさしく鎮めます。
中央の忠魂碑は、1956年(昭和31年)10月に建立されました。碑の裏には、満州事変(昭和6年~昭和8年)と、大東亜戦争(昭和16年~昭和20年)の戦病死者396名の名前が刻まれています。左の石碑は、1906年(明治39年)4月に建立された凱旋記念碑。日露戦争凱旋者95名、日露戦争時の留守師団服役者18名、北清事変凱旋者38名、日清戦争凱旋者16名の名前が刻まれています。右側の石碑は、凱旋紀念碑と同時に建立された戦病死者紀念碑。日露戦争戦死者6名、清国事変戦病死者2名、台湾守備病死者1名、日清戦争病死者2名の名前が刻んであります。
クレアラインと並行した汐見橋6号線の県道を散策し、吉浦湾にそそぐ寺山川の渓流沿いを下りていると、比較的新しいコンクリート作りの円筒に蓋がしてある井戸に出会いました。こんな高台でも、井戸があるってことは、吉浦は水脈に恵まれた地だと思いながら、近づいてみました。
高台の駐車場に据えられてあるこの井戸に、二段重ねの鏡もちが置いてありました。水への感謝を捧げるという思いなのでしょうね。蓋の一部は、空気を抜くための穴もありました。
井戸そばの坂道の上方には、クレアラインの高架があり、さらに茶臼山の尾根が見えました。いまの時代、井戸のある光景はほとんどなくなってきましたが、古い吉浦の街ならでは、井戸とを活用する暮があるのでしょうね。
吉浦西城町の高台の路地を歩いていると、注目をひく獅子ふうというかシーサーふうといったらよのか、二体の獣像が門の上に据えられていました。魔除けであり、飾りであり、じっくり見ていると、どこか愛嬌もあるような感じがしました。このような置物は、大体が一対ですよね。吉浦八幡神社の参詣石段の途中には、唐獅子一対があり、境内には阿吽の呼吸よろしく石獅子一対がありますでしょ。民家でこのような巨大な置物をみかけるのは、吉浦ではここのお家くらいではないかと思います。向こうの山は、魚見山。
吉浦の街は、細い曲がりくねった小路とか、坂があちこちにあります。ここは車が通れるところではありません。散策するには、安心して歩けるので、珍獣の置物に出会って、気分さわやかになりました。
吉浦で活躍した人物評伝を知るうえで、よい本に巡り合えました。その本は、呉市芸術文化功労賞を受賞した商工会議所理事で呉市議会議員だった上田繁さん(故人)が出版した「眼鏡橋往来」です。中国新聞に、昭和40年9月から翌年11月まで連載された「眼鏡橋往来」が本になり、読んでみました。出版によせて、呉市長(当時)の奥原義人さんは、「織りなす人間模様に奥深く触れられているので、殊更に興味が深い……呉市の歴史を支えてこられた先人の偉業を学び、新生呉市の街づくりに、新たな意欲燃やすところとなればと、ひたすら祈って止まない次第である」と記しています。
全251頁にわたる昭和49年2月28日発行の「眼鏡橋往来」の目次。そのなかで、「医者」(140頁目)という項目は、100頁を超す内容で、吉浦の医者の活躍など目をみはるものがありました。
手相だの人相だの墓相だの印相、名相、家相だのと、吉凶縁起を気にするのは、いにしえからの智慧なのでしょうか。吉浦の街なかを散歩していると、オヤッと立ち止まって飾り瓦を見ることがあります。 街なかを歩いていると、ついつい屋根瓦を仰ぐくせがつきました。あ、打ち出の小槌だ、シャチかな、鬼瓦だなと、まあ歩くことによって、屋根が語る面白さに引きずりこまれます。松に鷹の飾り瓦に出会ったときは、あまりの鋭さ、迫力に、お、お、おっとたじろいだことでした。(吉浦本町で)
大黒様の飾り瓦。大体、こういう大黒様には、恵比須様も近くにおられますよね。背後の山は、つばくろ山(吉浦中町で)
これまで、ちっとも気がつかなかった屋根瓦に、大黒さまの笑顔を仰ぎ見ました。(吉浦松葉町で)
翁が大笑いしている飾り瓦。快活で健常な表情に、元気がもらえました。(吉浦松葉町で)
鶴の飾り瓦(吉浦本町で)
亀の飾り瓦(吉浦本町で)
怒濤のごとく流れる吉浦大川。中国電力吉浦変電所のそばの光景です。梅雨に入り、雨が降り続き、風が舞っています。濁流の吉浦大川を見ていると、なんだか吸い込まれそうな感じがしました。
大雨のあと、誓光寺に近い川沿いでみた、すさまじい勢いの吉浦大川の流れ。川の段差で、激しい流水の音がひときわ大きく唸っていました。
変電所近くの東清水橋のガードレールに、吉浦大川の名前が記してあります。
中流に立つ大川の「砂防指定地」の表示板。この橋を渡って左側へ行くと、山を越えて隣町の焼山につながります。
鳴滝の清流も流れ込み、段差がいくつもある大川。吉浦には、この吉浦大川を含め12本の川があります。西から①宮花川、②宮川、③西城川、④東宮川、⑤寺山川、⑥吉浦大川、⑦平林川、⑧宇根川、⑨笠岩川、⑩横尾川、⑪神賀川、⑫東川の12渓流。なかでも、この吉浦大川が、わが街では横綱級といえます。
吉浦運動場の細い坂道をへだてた広場に、ストレッチバー、トレーニングベンチ、背伸ばしトレーナー、ぶらさがり器という4基の健康遊具があるので、出かけてみました。体を伸ばしたり、曲げたり、ねじったり…、健康遊具はまさに、呉市保健所の健康増進課が設置したすぐれものであることを体得しました。緑の丸い説明板をじっくり読んで、健康遊具に親しみました(吉浦西城町で)
背筋、腹筋強化器具のぶらさがり器。
身長にあわせて、どちらかのパイプにぶら下がります。年齢と体力によりますが、およそ30秒か60秒のあいだ、ぶらさがって背筋を伸ばします、と説明が記してありました。
全身強化器具のストレッチバー。
自分の高さに見合ったバーを握り、自由な姿勢でストレッチ運動を行います、と記した説明板。
背筋・柔軟性強化器具の背伸ばしトレーナー。
両脇のバーをつかんで、背伸ばしを行います。背筋増強と柔軟性向上の効果があります、と記した説明板。
腹筋・頚部強化器具の多目的トレーニングベンチ。
あお向けに寝そべっての腹筋や首伸ばしなど、多目的に運動が行えます、と記してあります。
「吉浦運動場で健康づくり。健康遊具で健康寿命を延ばしましょう」と呼びかけるチラシ。吉浦まちづくりセンターの体力測定教室でもらいました。
健康遊具がある広場から望んだ吉浦の街なみ。大麗女島と小麗女島が吉浦湾に見えます。眼下にひろがる光景を眺めていると、心が癒され、目の疲れもとれ、眺望も健康遊具?と感じました。
呉市の吉浦小学校の児童が描いた書写や絵画が、吉浦まちづくりセンターで、毎年秋に、二日間にわたって展示されます。わが子の絵を見に来た夫婦は、「こんなによく描けてるとは思わなかった」と、感心の声をアンケートに寄せています。(吉浦東本町で)
丹精込めて描いた作品群は、鑑賞者の心を引きつけます。
描く発想と観察力を称賛するささやきが聞こえた。
「描いた児童が、芸術家として活躍するかも知れないね」と小声で話ながら作品を丹念にみて廻っていた。全国展は、静岡県熱海市にあるMOA美術館で催されるという。
MOA美術館が所蔵する国宝の尾形光琳「紅白梅図屏風」と、野々村仁清「藤花文茶壺」の縮小レプリカが、会場の一角にあり、訪れた人がゆっくり眺めていた。
吉浦側の魚見山トンネルの近くに、パネルと写真が掲示してありました。魚見山トンネルの補修工事に関するものでした。長い歳月を経ているトンネルだから、剥落のおそれと、漏水のおそれがあるということで、剥落防止対策工と漏水対策工をしている、と表示してありました。
漏水対策工では、削岩機のような重機で、トンネルの壁に穴をあけ、水を抜いている光景が写っていました。
補修工事をしていない時は、当然のことながら通行できる魚見山トンネル。長さ860メートル。幅員6.80m。
このトンネルは車が走行すると、音が出ます。吉浦側のこの入り口から、トンネルの半分まで道路に刻みがいれてあるからです。スピードだせば、音はビーンと鳴りますし、通常走行速度では、ぎゅーんという音が、タイヤを伝って運転手に聞こえてきます。音の出る道路ってのは、ほかにもあるのでしょうか。
呉市のシンボル花の「つばき」が、葉は緑、花は赤という色付きでトンネルを飾ってあり、「魚見山隧道」とトンネルの名称が、右から左に横書き表示してありました。昔はトンネルといわずに、隧道と言っていたんですね。
この魚見山トンネルは、昭和22年10月にできたことが分かります。
国土交通省、呉国道出張所の広報・第19号「くれこく」。魚見山トンネルが14~5年のペースで換気設備工事が行われることがわかりますね。
俗に、長寿の象徴として、古来から「鶴は千年、亀は万年」といわれています。なかでも、鶴は、折り鶴、千羽鶴で知られ、瑞鳥・瑞兆と尊ばれていますよね。祝福、病気平癒、見舞いなどに、いろんな使い方をされています。めでたい鶴を帯状の飾り瓦にした塀を、吉浦の「あじさい号」バスの通り道でみかけました。(呉市吉浦松葉町で)
下が石垣塀、上が赤レンガ塀、その中間に鶴をデザインにした飾り瓦が帯状にはめてあるユニークな三位一体の塀を見て歩くのが面白い。
堅い守りの象徴であり、長寿をあらわす吉兆と縁起物の亀。長い尾がついており、いかにも長生きの主としての存在感を感じながら、見歩くのが楽しい。
街なかを散歩していて、道路に面した土蔵をふと見上げました。白壁の上のほうに、、幾何学的な模様があります。家紋なんですね。風雪に耐えてビクともしない歴史の流れを感じます。家紋のデザインをじっと見ていると、なかなか変化に富んでいて面白くて、そのうえ謎めいているように思えました(呉市吉浦東本町で)。
くだんの土蔵の家紋は、アジサイ号のバス通りで見かけました。今も家紋といえば、羽織や留め袖、風呂敷、ネクタイ、塗りの箱、キーホルダー、湯呑み、額縁飾り、瓦、墓など、まあ、いろんなところに使われます。なかでも、土蔵についている家紋は、なんか由緒あるような気がします。
振り返ってみて、この道は味わいのある通りだと感じました。
呉市吉浦の神賀川は、魚見山を源として、吉浦湾に注ぎこみます。緩やかな流れや、急傾斜の流れや、段差のある流れなど、川べりを散策するのが、楽しくなります。中流のこのあたりは、川底に整然と石が組まれており、その両横も石垣がほどこしてあり、気持ちよさを感じます。向こうの山は、つばくろ山。
吉浦新出町の奥まったあたりに、呉市吉浦墓地と誓光寺墓園があり、その最奥に神賀川の表示板が立っています。ここらあたりが神賀川の源流であることが踏査して分かります。表示板のそばに、赤枠で記したもうひとつの鉄製看板が立っていますが、表面が風化して、文字はまったく判読できませんでした。
急流をゆるやかにするために、石段で段差をつける工夫がなされています。傾斜地ゆえの段々になって流れる上流付近の神賀川。
二種類の「急傾斜崩壊危険区域」の表示板が、神賀川の中流沿いに建てられていました。いずれも、新出・神賀地区と記されています。
下流近くでは、神賀川に橋をかけ、車が数台、間隔をあけて停めてありました。川上は、絶好の車庫なんですね。
鉄板で覆った橋や、コンクリートの橋、また家並みを歩きながら見る景色は、味わいがあります。
神賀川の下流では、川の両側が車道・人道になっています。
この時期の上流では、鮮やかなアジサイを愛でることができました。