吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
長さ141m、幅22m、基準排水量5700トンの掃海母艦「ぶんご464」が、吉浦湾の海上自衛隊呉造修補給所貯油所第一桟橋に接岸し、長い時間をかけて燃料補給をしていました。
吉浦小学校で学習発表会がありました。今年の発表会は、新型コロナ感染拡大防止のため、学年単位で日程をくみ、参観も入場前に検温があり、人数制限が行われ、密集、密接、密閉に配慮する措置が講じられました。児童も参観者も、先生も、み~んなマスク着用しました。
会場の体育館には、明るく元気な合唱が響き、キビキビとした寸劇や声をそろえて朗誦するシュプレヒコールをしていました。
吉浦小学校の体育館で、学習発表を参観する保護者
秋雨がそぼつなか、全長151mの護衛艦「さざなみ113」が、補給のために、吉浦湾の海上自衛隊呉造修補給所貯油所に接岸しました。「さざなみ」の接岸や離岸には、海上自衛隊の260トン型タグボート「YT97」と、「YT08」の二隻が巨体艦の世話ぶりを発揮していました。
インド・チェンナイやソマリア沖・アデン湾、ベトナム・カムラン湾、ソロモン諸島ホニアラ港、中国・湛江、オーストラリア連邦ダ―ウイン周辺、アメリカ・グアムなどに派遣されたことがある巨大艦船「さざなみ113」の雄姿を感嘆しながら、見入りました。
秋の陽にキラキラ輝く洋上を、ゆっくり航行し、吉浦湾の海上自衛隊呉造修補給所貯油所に、「掃海艇「つのしま693」が、第一桟橋に接岸しました。オレンジ色のフェンスを張り巡らし、補給作業がはじまりました。艇名は角島に由来しているということです。この補給基地に艦船がくると、吉浦漁港などに、船のマニアで賑います。
掃海艇だから、本来の任務は機雷の処分をすることにありますが、災害救援にも活躍します。「つのしま683」は、東日本大震災には、横須賀から緊急出向し、気仙沼沖での遺体収容、宮城県沿岸部の行方不明者集中捜索にも参加しました。
海上自衛隊の練習艦「はたかぜ3520」が、秋雨ふる吉浦湾に入港し、海上自衛隊呉造修補給所貯油所の第一桟橋に接岸しました。艦名の「はたかぜ」は、旗にあたってはためかせる風に由来しているそうな。ロービジ塗装、全長150m、基準排水量4600トン。護衛艦や練習艦が接岸すると、吉浦の街は、なんだか活気にあふれてくるような気がして、愉しくなります。
タグボートで吉浦の海自第一桟橋に接岸する練習艦「はたかぜ」
瀬戸内海の青色と、海岸線から見える波の白色をイメージした2両編成の観光列車「エトセトラ」が、10月3日から、呉線を往路運行することになりました。「エトセトラ」のロゴマークには、相当こだわりの意味合いがあるということです。吉浦駅を出て、尾道駅に向かう「エトセトラ」。
観光列車「エトセトラ」は、時間調整・離合のため、吉浦駅に停車します。だがしかし、ドアは開きません。往路は、広島駅を出発し、呉、安芸津、竹原、忠海、三原に止まり、終着の尾道まで。復路は、山陽本線で尾道を出発し、三原、西条、広島に止まり、宮島口駅まで。月金土日に一日一回運行するんですよね。
吉浦駅構内にさしかかる「エトセトラ」。
一生懸命走り終えてゴールした元気いっぱいの大心保育園の園児たち。あの感動をもういちど。本来なら運動会があるはずですが、令和2年は、コロナ禍のせいで、スポーツやイベントは、軒並み中止になっています。幼児の運動会もしかり。でも保育園や幼稚園の園児たちは、親や先生の愛情につつまれすくすく育っています。あのあどけない園児らの運動感覚は、何度みてもほほえましいものですね。
さまざまな国の国旗がロープに掲げ、先生のリードで繰り拡がるマスゲーム。
さあ、手をつないで。園児らには、どうう意味や願いがあるのか、分かってないようです。でも、言われた通り動き、体得していくものがあるようです。
ああ、よく飛び越えれたねえ。りっぱ。拍手。跳び箱をクリアするみのり幼稚園の園児。
ぶらさがったオレンジの袋のなかには、お菓子が入ってるよ。さあ、とってごらん。
走れ走れ。はしることに意味があるんデス。
げんき一杯、伸ばしたり曲げたり・・・。
吉浦中町の誓光寺の梵鐘は、呉市指定の有形文化財になっています。貞享5年(1688)に造られたことが、鐘に記されている古いものです。
梵鐘の説明板には、次のように記されています。
「呉市指定文化財第7号 有形文化財 誓光寺の梵鐘 昭和41(1966)年10月1日指定 梵鐘は、貞享5(1688)年、佐伯郡廿日市の山田貞栄によって鋳造されました。鐘銘には、広島の在家の道者堺屋見誉道意という人が、亡き母と思われる深誉妙意信女の菩提を弔うため、広島の長安寺へ、同寺住持の覚誉の時代にこれを寄贈したとあります。この鐘がどういう理由で誓光寺に移されたのかは不明です。鐘には、次のように記されています。諸行無常 是正滅法 生滅々己 寂滅為楽 南無阿弥陀仏 為深誉妙意信女 證大菩薩也 貞享五戊辰載 五月初五日 信心之播主堺屋 見誉道意敬白 芸州廣島 清冷山久池院 長安寺五世 成蓮社覚誉眞意 上人快翁大和尚 告貞享五歳 六月初九日 冶工 同国佐伯郡 廿日市之住 藤原山田氏貞栄」 呉市教育委員会
鐘を吊るした誓光寺の鐘楼。右側は親鸞聖人の銅像。
誓光寺では、大晦日(おおみそか=12月31日)の深夜0時をはさんで、お寺に集まった人が順番に鐘を撞きます。静寂の深夜の街なかに、除夜の鐘の響きが行き渡ります。煩悩をはらいきよめ、新しい年を実感させる除夜の鐘が鳴り響くと、耳をすませば巨大貨物船の汽笛も、聞こえるのが、吉浦の除夜です。
吉浦八幡神社の境内から一の鳥居を眺めてみると、うっそうとした樹木があります。神社を取り囲む天然記念物の社叢は、呉市の文化財に指定されています(吉浦西城町=よしうらにしじょうちょう)
八幡さまの石段を上がっていく途中に表示されている文化財の説明板。そこには、次のように記してあります。「呉市指定文化財 第21号 天然記念物 吉浦八幡神社の社叢 S43(1968)年10月1日指定。海抜約20mに当たる神社の南・東斜面は、急な崖となっており、植物が生えにくく、昔はこのあたりが、海岸線だったと考えられてます。境内には、アカマツ、クロマツ、ソメイヨシノなどが植えられており、社叢は斜面毎に異なった植生を持ち、植物の種類が、時の経過によって移り変わってきた様子(遷移)の各段階を見ることができます。もっとも大木が多い北斜面は、アラカシ、クロガネモチ、シイ、ナナメノキ、モッコク、ヤマモモなどが生え、タイミンタチバナ、ヒメユズリハ、マンリョウ、ヤツデなどの常緑低木が見られます。特に、石段の近くには、小規模ながらシイ林の極相(長期間安定した状態)が見られます。全体的に樹種が多く、古木や大木が多いところが特色です。呉市教育委員会」
神社の南・東斜面は、急な崖となっており、植物が生えにくく、このあたりが昔は海岸線だったと考えられます。
崖下には、宮川が流れており、そのそばに、「急傾斜地崩壊危険区域 吉浦八幡神社下地区」という表示板があります。
境内東側の樹木と西側の樹木。大木や古木が無数に生えています。
かつての吉浦小学校運動会における児童による組体操。運動会の定番だった組体操は、危険という観点から、もう決して実施されることはないようです。かつては、呼吸を合わせる、バランスをとる、協力をする、といった具象化の花が組体操でした。組体操華やかなりし頃が懐かしい。(吉浦中町で)
5人一組によるブリッジ。
カバーする先生は心配そうに見つめて・・・
背筋を伸ばし、腕を水平に。そうそうよくできました。
ぐらつかないように、力の入れどころ、組み合わせがむつかしく・・はい、よくできました。
広島呉道路=クレアライン=の少し上がった山ぎわから見渡した吉浦の街並みと吉浦湾。その先の瀬戸内海は波おだやか。倉橋島や能美島、江田島がくっきり。コロナ禍をわすれさせてくれる安らぎの光景です。
茶臼山のふもとのクレアライン。車の走る風景を、鉢巻山のすそ野からながめました。右側の鉄塔は、中国電力吉浦変電所。無風状態でしたから、大型の車が通ると、道路の継ぎ目の鳴る音が、ここちよく聞こえました。右上の山は、茶臼山。
吉浦の山手は、クレアラインが高架になって通っいるところがあります。吉浦中町のちびっこ広場あたりでは、5本の橋げた。その下を汐見橋6号線の市道が立体交差をしています。
JR呉線の吉浦駅の側線には、珍しい車両が来ます。保線用の軌道モーターカー「JR西日本2065」もそのひとつ。保線用の資材や、機器工具類の運搬に使用するけん引式のディーゼルエンジンを搭載した作業用車です。旅行や通勤通学、商用など電車利用客を安全に運搬するには、縁の下の力持ちとも言うべきこの保線作業車の存在は欠かせません。いわば、命を守る保線車といえます。
道モータカ―のうしろには、採石運搬車が牽引されていました。
軌道モーターカーの前には、三連のレール運搬トロッコが接続されていました。
カーブに使うレール、直線に使うレール、ポイント切り替えに使うレール、補強に使う複合レールなど、さまざまなレールが吉浦駅構内に保管されていました。
なあんでこんな高い煙突が必要なのか、工場関係者ではないから分かりません。ともかく、吉浦で、一番高い煙突が二本立っていることは、散歩していて分かります。地元の味噌屋さんや酒造屋さんのところにも煙突はありますが、吉浦の海沿いのこの工場煙突は、格段に高いことを誰もが認めるところでしょう。高さは30メートルあると言われています。煙が出ているのを見たことは、一度もありません。清潔な白い煙突は、吉浦名物といっても過言ではありません(吉浦新町)
広電バスが通るこの道路沿いは、屏風のように工場が建ち、ずずっと向こうに二本の立派な煙突が見受けられ、壮観な光景です。
煙突の真下に行ってみました。青空にマッチしている二本煙突は、クレトイシという会社の物なんですね。
クレトイシ株式会社の事務所が、道路を隔てた山手側にあります。
事務所の隣の建てものは、戦後しばらくオランダ軍が使用していたということです(右)。これもクレトイシの施設で、戦後しばらくは、オランダ軍のジープの修理工場として使用されていた歴史があります。
吉浦の最南端の橋が、潮風で茶色に錆びついたガードレールのある本川橋です。欄干からは、大麗女島と小麗女島、さらには倉橋島と東能美島を見ることができました。右側は14階建ての藤和ハイタウン吉浦。カニ祭りには、この本川橋を通って、ちょうさいや俵、神龍、御船、酒樽などのおみこしなどが往復します(吉浦新町で)。
「ほんかわはし」と記された銘板が、ほとんど取れかけそうになっていました。
「吉浦大川」という銘板はしっかり付いていました。
本来ならば、山手側のガードレールにも銘板があるはずですが、見当たりません。
茶臼山の裾が見える北側方向の眺め。ガードレールのあるこの「本川橋」の向こうには、JR呉線の鉄橋が見えました。
吉浦八幡神社の石の大鳥居の前から、急坂の山道をグングン歩いて行けば、コンクリートでできたガードの小坂路が出てきます。右側は吉浦運動場になっており、左側は「……来てみればいと住みやすき吉浦の里」の歌碑や健康遊具のある公園があります。ここに来るまでは、心臓やぶりともいうべき傾斜のきつい小坂路ですが、散歩で体力増進をはかるには、もってこいの道。
歌碑公園にある藤棚とベンチ。ひと休みして、さあ散歩開始。
小路からの眺め。びっしりとつまった町家や高層ビル。吉浦湾もちょっぴり見えます。正面の山は魚見山。
七福神の一柱・恵比須さまと対面させていただいたのは、吉浦中町を散歩していた屋根付きの壁のある路地でした。恵比須さまは、もともとは大漁をもたらす漁業の神さま。海の名前にふさわしいわが街「吉浦」に、恵比須さまは商売繁盛の神さまとしても崇められます。こちらの宅は、何か商売をしているのでしょうか。魔除けや家運隆盛の願いを込めて、恵比須さまを飾っているのでしょう。風折烏帽子を頭にし、ヒゲをのばし、左の小脇には鯛を抱え、右手は釣竿を持っている仕草をしておられ、にこやかに微笑みに、なにか有難くなって拝見しながら通り過ぎました。
燃料を満載して吉浦湾の入港するタンカーは、巨大船から中型船までさまざまな船があります。このたびは、白油船の第五大啓丸が吉浦湾の海上自衛隊呉造修補給所貯油所の第一桟橋に接岸しました。積載している燃料を陸揚げする作業がはじまりました。
オイルフェンスをめぐらし貯油作業するオレンジ色のタンカー第五大啓丸は、748総トン数(GT),1995戴貨重量トン(DW)。燃料の荷揚げに数時間かかりましたね。船が出入りすると、吉浦の街はがぜん活気をあびます。
北と東と西の三方を山に囲まれ、南に海をのぞむ呉市吉浦のまち。中央に14階建ての高層マンション2棟がひときわ人目を引きます。大麗女島と小麗女島までが吉浦湾。
びっしり建て込んだ呉市吉浦の空からの眺め。吉浦地区の人口は、令和7年1月末現在で、9,121人(男4,373人、女4,748人)で、年々減少傾向にあります。人口減少はなにも吉浦に限ったことではなく、いまの日本の現象なんですね。この日本の片隅、吉浦に暮らしている人は、自治会の「思いやり、感謝で、楽しい町づくり」を合言葉に過ごしています。右側の白く横長の建物が、吉浦小学校の校舎の一部。