吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
上城町の山の手に設置されている土石流危険渓流と記された「宮川」の表示板。
宮川の第一および第二支川の絵入り表示板。すぐ近くに、桜の名所で知られる上城公園があります。
中流あたりの宮川には、土砂崩れが起きないように、丈夫な鉄骨が何本も仕組んであるところが目につきました。
広島市内と呉市内を結ぶ国道31号線の下を、宮川が流れています。交差点の信号機に、「宮川橋」と、川の名前が示してありました。
宮川の河口あたりには、白い廃車バスがありました。昔は、ここが広場になっており、呉駅から来たバスはここで方向転換し、呉駅へ折り返したことを、近くの古老から聞きました。吉浦カニ祭りの太鼓などが入れてある廃車バスの下から、JR呉線の下をくぐり、吉浦湾へと宮川は流れ込みます。向こうの14階建ての高層ビルは、自衛隊宿舎。
吉浦八幡神社のそばを流れる宮川沿いには、夏になるとザクロの実る光景が楽しめます。
呉市吉浦乙廻というところには、海上自衛隊基地のひとつ呉造修補給所貯油所があります。その貯油所では、開放デーとか地域交流会(餅つき)など、親しみのある催しが時折あります。その時には、施設を見学できることもあります。感慨を深くするのが、古い建物の半地下にある「貯油所史料室」。入り口には、第8ポンプ室を整備して史料室にした年季を感じさせる看板が掲げられています。いまでも、この貯油所史料室は、現存しています。
時代とともに取り替えた板づくりや金属加工の正門看板が、史料室の半地下部屋の赤レンガの壁に展示されています。歴史の推移を感じないではおれません。
ず~っと昔に使っていた機械も展示してあります。台風による大津波で海水が浸水し、使用不能になった送油機のピストンなども、たいせつに保管展示してありました。
「海軍水道 消火栓」としるしてある蓋。
4年前までは、護衛艦や補給艦、潜水艦など、海上自衛隊の艦船が、吉浦の補給所貯油所に寄港し、給油していました。この護衛艦は、訓練支援艦「天竜4203」。
都会では、電話線や電線などを地中に施し、電信柱なるものを撤去し、さわやかな道路景観を感じることがあります。吉浦では、細い路地があちこちにあり、電信柱をすこしでも道の端に寄せて、通行の便宜をはかるという工夫があります。白壁に添うように電信柱が立てられ、屋根に突き当たる前に曲げるという面白さ。知恵を絞ったというか、知恵をいかしたやり方…。そういえば、ガードレールを支える柱や、カーブミラーの柱も曲げて立てられているのも、よく目にします(吉浦東本町で)
下から見上げてみると、まっすぐな電信柱のようですが、上のほうでカーブしているのです。柱には、「NTT 東本町」という表示板がついていました。
JR吉浦駅前を走る国道31号線脇の歩道を歩いていました。と、軒下に、「土居旅館」と横書きした大きな木製の看板が掲げてありました。ああ、ここは旅館だったんだと、ひとり頷きました。看板の名前の下には、目立つ白文字で、「電 吉浦五八番」と記してあり、前時代的な印象を受けました。局番なしの電話番号は、今ではもう通用しません。わが街吉浦には、ビジネスホテルやファッションホテルが現存しますが、段々と宿泊施設は少なくなってしまいました。散歩していると、かつてははなやぎ、にぎわったことを連想させる看板だの建物も見ることができ、関心が湧き、興味を覚えます。「土居旅館」の昭和レトロな看板を見上げて、わが街の名物?遺物? と思ったことでした。
国道側面の駅前歩道は、民家がならんでいます。きょろきょろしないで、すたすたとまっすぐ歩けば、「土居旅館」という看板にはお目にかかれません。ぶ~らり、じろじろと、のんびりガラス戸や軒下を見て歩くことで、旅館の大看板が、この民家の軒下にあることを知ったのでした。吉浦のロマンは、こういうところにもあるんですね。だから、散歩って、たのしい。
羽織や袴、土蔵やちょうちん、墓石などに、紋章といえばよいのか、紋所というのか、定紋というのか、ま、こういうのを総称して、家紋といったらよいのでしょうかね。ネクタイ、風呂敷、指輪などにも、家紋があしらわれているのを見かけることがありますよね。
吉浦中町の路地を散策していると、白壁土蔵の上のほうに、帆掛け船の図案がついていました。家紋って、いわれがあるんでしょうね。帆掛け船をみていると、色んなことを想像して、楽しくなりました。
土蔵の帆掛け船の紋章を見ているうちに、吉浦にはあちこちに土蔵があるから、土蔵にはどんな家紋がついているのか、散策していると、ついつい土蔵を注意して見上げるのがクセになりました。
「しょうりはし」と木製の銘板が埋め込まれていました。彫刻刀で彫ったのでしょうか。もう風化して、首を曲げたり、近づいたりして、やっと判読できました。コンクリートの欄干のデザインを摸してある、上が円形、下が水平切り、縁どりがほどこしてある手作りのような楽しい木製銘板と思いながら見つめました。
もう一方の橋の親柱には、「昭和二十八年三月竣功」と刻んでありました。木目を見ていると、風雪に耐えた長い歳月がにじんでいることが伝わってきました。
時代小説ものに、藤沢周平さんの「橋ものがたり」という短編小説(10篇)がありますよね。橋で会う約束やすれ違い、出会い、通行などから起こる人情もの、世話もののドラマに、ついホロリとさせられます。この勝利橋でも、さまざまなできごとがあることでしょう。さて、頑丈な橋を渡って、もう少し散歩してみましょう。向こうの山は、魚見山。
波おだやかな吉浦湾をはじめ瀬戸内海では、ワタリガニがよく獲れたそうな。旬は、もっぱら晩秋から春。ワタリガニの大漁・豊漁に感謝を捧げることが、そもそもの吉浦八幡神社におけるカニ祭りの発祥になったということなんですって。吉浦の食品スーパーや、ゆめタウンの鮮魚コーナーでは、秋になると、ワタリガニがわんさと並びます。しおゆでにしたり、蒸しガニで食べたり、みそ汁に入れたり・・・と、料理法は多彩。黄褐色の横長で六角形のような甲羅には、白い水玉模様があり、ハサミや脚は青みがかっていますね。
青銅のゆるやかな屋根が気持ちいい吉浦八幡神社の奥宮。人は本殿とも本堂とも呼びあがめています。日ごろの参詣をはじめ、ボーイスカウトの行事や巫女舞いの練習、とんどまつり、慰霊祭など、町民の暮らしに深くつながっていますが、なかでも賑うのが吉浦カニ祭り。毎年10月第一日曜日の例大祭をはさんだ三日間は、街をあげての奉祝祭礼となります。(吉浦西城町)
吉浦カニ祭りには、だんじりやいろんなお神輿が繰り出ますが、太鼓、笛、鉦の鳴り物は、荘厳で威勢のよい音が、境内いっぱいに響きます。
一の大鳥居まえに集まった吉浦カニ祭り参詣の善男善女。ここから、百十数段の石段をお神輿や太鼓の列が上がりくだりします。
JR呉線の吉浦駅は、電車を走らすあの長いレールを使った珍しい建築作品であることが、プラットホームに立つと分かります。垂直な二本のレール柱を二カ所曲げて、屋根を支えています。レール作品の妙味が伝わってきますよね。これはもう、芸術遺産だなあ。
跨線橋を支える柱も、階段を支える柱も、すべてあの長~いレール。じっくりみるほどに、楽しくなってきます。
吉浦駅の跨線橋は、レールを使ってできているんですね。レール考古館ともいえるシロモノと思いました。
JR呉線の吉浦駅は、歴史の深みを感じさせるお宝駅といえます。
吉浦町内の音楽好きな人に聴いてもらいたくて・・・と、広島音楽大学のおねえさん四人が、吉浦まちづくりセンターでコンサートを催してくれたことがあります。2つのバイオリンとヴィオラにチェロという4つの弦楽器が奏でる室内楽の調べに、うっとりしたことでした。弦楽四重奏によるヴィヴァルディの「四季」をはじめとする名曲、新曲のアルバム。むろん無料で聴けたのですから、何か得をしたようで、日常生活に安らぎを入れてもらえました。
オーケストラではなんだか大げさだし、と言ってピアノ曲では何か物足りない…そんなときに室内楽の魅力・弦楽四重奏でもてなしてもらえたのは、おおきな歓びでした。演奏の合間には、楽器の説明もあり、どんな音がするかなど、楽しい解説もしてもらえました。
令和2年は、のっけから新型コロナウイルスの感染防止策のために、コンサートや文化祭、そのほかいろんなイベントが、軒並み中止になって寂しい思いをしますが、感染が収束したら、また心を潤す室内楽をしてもらいたいものです。弦楽四重奏を奏でたくれた四人のおねえさんに、地元の幼な子たちが、「また聴かせてくださいね」と、感謝と願いの花束を手渡しました。
趣のある看板に出会ったのは、吉浦東本町の道路を歩いていた時です。「ひちや」の看板のことです。上には、マルの中に「質」と書いてありますが、これは下に平仮名で大書してあるように、あきらかに「ひち」。ワードやエクセルで、「ひち」と叩いても、質の字も、七の字も出ません。質とか七を、「ひち」と言うのは、方言だということなんですね。かくれんぼをしている子らの数え方を聞いていても、大概は、「イチ、ニイ、サン・・・ヒチ」と言ってますよね。ということで、なつかしの「ひちや」看板の前にしばらく佇みました。
吉浦には、「松田ひちや」というお店はもうありません。看板だけが、「親切丁寧」という人情味と、「古着高価買受 大口歓迎」という主なる扱い内容を物語っていました。電話の3という局番も、吉浦には、もうありません。先だって配布された「呉市吉浦・天応地区テレパル50」の企業リストでも見当たりません。この看板を見ていると、ひちやの時代背景が感じられ、昭和の名残を感じました。
呉市吉浦宮花町を流れる宮花川。上流では、コンクリートでしっかり固めてあり、土砂災害に備えた造りです。宮花川には、5種類の表示板があります。この「砂防指定地 宮花川」がひとつ目。
中流には、頑丈な砂防ダムがあり、「砂防指定地 宮花川砂防ダム」の表示板は、湿気のためにカビがはえたようで風化がはげしく、判読しずらい。これがふたつ目の表示板。
町家沿いの生活道路と、崖がわの遊歩道が、川を挟んでいます。宮花川を散歩するのが楽しくなります。
土石流が発生するおそれがあると記されている三つ目の「砂防指定地・山腹崩壊危険地区・土石流危険渓流 宮花川」の表示板。危険の文字がふたつも記されているこの表示板も、退色しつつあります。なんとも、怖い怖い表示板に見えました。
図解入りの「砂防指定地 宮花川」の表示板。これで四つ目の表示板。現在地がかろうじてわかります。ははあ、この川は右から左に流れ、国道31号線に向かっているんだという絵ときができました。
戸数が少ないせいもあってか、人と会うことがありませんでした。このあたりで物を落としたら、川底が深いので拾うことができないと思いました。
上流でみかけた五つ目の「急傾斜地崩壊危険区域 宮花10地区」の表示板。絵図が記されているようですけど、風化して、よく分かりませんでした。ともあれ、土砂災害だの山腹崩壊だの、危険渓流だの、急傾斜地崩壊だのと、まあ、これでもかというくらい怖がらせていただきながらのスリル感ある散歩になりました。この宮花川は、JR呉線の下をかいくぐって、やがては吉浦湾に注ぎ込んでいきます。
国道に近い宮花川のそばには、慈光院があり、子安地蔵のご尊顔を路地から仰ぎみることができます。「取りこし苦労も過ぎこし苦労もせんでいい」とやさしく語りかけてるようで、安らぎを覚えます。
呉市吉浦の自治会回覧板に添付して、「呉市津波ハザードマップ」が配布されました。南海トラフ巨大地震が発生することを想定した津波への警戒が、簡潔明瞭に理解できました。つまり、地震による津波襲来では、より遠くへではなく、より高い所へ避難することが大切なことを、ハザードマップ手にして、しみじみと感じました。
わが街吉浦の場合、吉浦中町の吉浦小学校の体育館と教室、また吉浦東本町の吉浦まちづくりセンターの3階以上が、「指定避難所」であり、津波災害の避難所として使用できることが分かります。そして、吉浦西城町の吉浦運動場は「広域避難場所」であり、津波災害時には一時的に避難する場所であることが分かりました。狩留賀町の吉浦中学校グラウンドと、吉浦小学校のグラウンドは「一時避難場所」だということなんですね。ま、家族とよ~くよく確認しておかなくてはと感じました。
吉浦には、浄土真宗のお寺さんがあちこちにあります。その一つが、吉浦中町の大心寺。通りから拝見すると、正門の上には、な、なんと、いきなり白とブルーのツートンカラーの鉄パイプ橋がしつらえてありました。普通、お寺さんといえば、荘厳な雰囲気を醸していますが、このお寺さんは、庶民側に立ったユニークな子供の楽園だと感じました。(呉市吉浦中町で)
ちょっと覗いてみると、親鸞和尚さまの銅像に迎えられます。その奥のほうには、すべり台がみえます。幼な子を対象にした遊具。ははあ、正門の左手のほうから幼な子がパイプ橋を通って、このすべり台に至るのだということが分かりました。このお寺の向こう側に、大心保育園があるから、園児たちが、本堂でおまいりをして、ここで遊ぶこともあるのかなと思いました。
笠岩山大心寺と記された掲示板には、「人生の苦はすべて如来の励ましである」という書が貼ってありました。うーん、含蓄ある言葉と感動しました。お寺さんの掲示板は、随時、人生を導くかしこくも尊い言葉が貼り出されるんですね。
呉市吉浦地区では、5月に町民体育祭を、吉浦運動場で行います。令和2年の今年は、残念ながら、新型コロナウイルスの感染拡大の防止対策のために中止になりましたが、町民体育祭は、大人も子どもも、日の光を浴びながら力を出し切り、心の絆を深める一大イベントです。青空のもと、声援をあびながらの楽しい玉入れ。
「よーい、ドン」。走る子どもたちの一生懸命には、見守る大人のほうも元気がもらえます。
走る走る。早い早い・・・調子を合わせて、ゴールめざす二人三脚。
「よいしょ、ヨイショ」「がんばれ、ソーレ」綱引きこそ、力比べの最たるもの。
誰もが感じる「運動は健康の素」。まさにそうなのです。
運動場をびっしり囲む各自治会のテント。応援や食事、選手の休憩、活気にあふれます。開会式と閉会式は、テントからぞろぞろと集まります。
吉浦のカニ祭りは、趣向をこらした色んなおみこしの出現も圧巻ながら、魚見会・一区のバクロウの出現にも度肝を抜かれます。かなりの丈のある3体の張り子人形・・・声を張り上げ、青竹ふりまわして闊歩するバクロウという巨人。参詣客に危害を加えることはありませんが、ともかく目も眉もつりあがる赤い顔のバクロウには、鬼気迫る迫力があります。(呉市吉浦西城町で)
おっとりとしているようで、何か思わせぶりな黄色の顔したおちょぼ口のバクロウ
タバコをくわえた上目づかいのバクロウも、カニ祭りには必ず出てきます。
吉浦八幡神社の二の石鳥居に佇むバクロウ三体。怖いというよりか、どことなく愛嬌があると思いませんか。
吉浦八幡神社の境内で、稚児があでやかな花笠踊りを舞う姿は、もう可愛くて、愛らしくて・・・獅子2体もかたわらで花笠踊りを見守ります。「ちょうさい」みこしの左には、吉浦潭鼓町(魚見会・一区)にとって由緒のある荒神社の祠がみえます。
古きを訪ね新しきを知る温故知新という言葉があるように、ルーツをたどり今昔を較べるのは楽しいことです。
吉浦中学校PTA写真集「吉浦の歩み」(平成9年4月21日)発行に掲載されている「吉浦村絵図」を見ていると、興味が尽きません。この絵図は、天保10(1839)年以降、同13年までの絵図と推定されるそうな。北に「焼山境」、東に「庄村境」、西に「か連い崎」、南に「魚見山」とあり、絵図をクルクル回してみました。城山(茶臼山)の周辺には、光寂寺など三つのお寺があったことがわかりました。
吉浦中学校創立50周年記念に刊行された写真集「吉浦の歩み」の表紙。①風景と街並み、②世相の推移、③経済の発達、④交通、⑤教育と文化、⑥社会、⑦趣味・娯楽・遊び、⑧夏の思い出・狩留賀、⑨吉浦中今昔物語、⑩沿革、⑪年表、とわかりやすく吉浦を紹介しています。
あの絵図の天保10年から181年を経たいま、吉浦の高台から南の瀬戸内海側を眺めてみました。「吉浦の歩み」の<沿革>の項に、「吉浦町においては、弥生式土器の破片や昭和5(1930)年と翌6年、磨製石斧1個ずつが発見されている」と解説されています。ならば吉浦には2000年前から人が住んでいた・・・、と壮大なロマンを思わずにはおれません。
手紙をポストに投函するとき、吉浦の街なかを貫くこの地点に佇むことが、よくあります。ここからの眺めは、じっくりと見通せるので、心をとらえます。
うしろに茶臼山があり、はるか前方に紺碧の瀬戸の海があり、よくよくみると、米粒ほどの小島が見えます。無人島の小麗女島です。さらにその向こうに浮かぶのは、東能美島と江田島。山の手から吉浦本町のアーケード街に向かって、一直線の県道278号焼山吉浦線が貫いているこの光景は、 まるでスキーの助走路・シャンツェのようでもあり、超ロングすべり台のようにも感じます。
ここから真正面のJR呉線の吉浦駅ロ-タリーまで、約700m。晴れた初夏の一日、しばし目をこらして、一直線の吉浦路に見とれました。(吉浦中町で)
編み笠をかぶって、少し首をかしげ、右手に徳利をもった巨大な愛らしい信楽焼きのたぬき像に出会ったのは、吉浦岩神町の細道を散歩していた時のことです。たぬきとは、「他を抜く」という洒落があるように、家運繁盛に通じるなあんて思いながら、路地に佇み、しばしご対面させていただきました。
♪たん たん たぬきの○○○○は 風もないのに ぶーらぶら それを見ていた 親だぬき おなかをかかえて わっはっは♪
人の丈より高く大きいたぬき像にご対面して、子どもの頃、意味もわからず口ずさんだ「たんたんたぬきの」歌を、ふと思い出し、思わず「プッ」と吹きだすような思いにかられました(吉浦岩神町で)
初夏の青空のように、青色の帽子をかぶり、気怠い暑さもいとわず吉浦運動場でソフトボールの練習に少年たちは励みます。吉浦小学校の児童を基点にした吉浦スターズのことです。緑に囲まれた吉浦運動場で、リーダーのノックを一球も逃すまいと、機敏な動きでボールを追う姿が気持ちいい。(吉浦西城町)
打つ、捕る、投げる、走る。広島東洋カープのように、チーム一丸となって練習し、対外試合もしています。運動場はナイター照明が完備しているので、吉浦スターズは、夜間も使用しています。
吉浦スターズは、平成11年6月1日に設立した伝統ある少年ソフトボールチーム。呉地区少年ソフトボール連盟にも加盟しているそうな。
入り口で見た車止めのパイプ柵には、「吉浦運動場」と記されています。吉浦スタ―ズは、この運動場を、「吉浦グラウンド」と呼称し、ホームグラウンドとして親しんでいます。
吉浦運動場の入り口には、明治100年の節目に記念植樹した吉浦婦人会の石碑がありました。
魚見山のふもとが源流の東川には、砂防の指定地であり、土石流危険渓流であることを記した表示板が立っている。表示板のあるところから、高層マンションなど吉浦の街の一部が見え、瀬戸内海や江田島の連山が霞んで見えるくらいだから、東川の源流近くは標高の高いことがわかる(吉浦東町で)
川の名前を記したもう一つの東川の表示板。
かなり風化した上流の表示板には、「急傾斜地崩壊危険区域 吉浦東210地区」と判読できた。
東川の99%は暗渠で、道路の下を流れている。だから、東川は一体どこを流れているのか川探訪するのもおもしろい。街なかの下流あたりでは、ところどころに鉄柵の蓋がしてある。
JR呉線をはさんで、海側には、遊水を調節するポンプが設置されている。ポンプには、「吉浦遊水池ポンプ所」と記されている。海水の満潮や干潮で、この遊水池は水量が変わる。向こうに見える山は、魚見山。
おおきな御影石に、「浄土真宗本願寺派 永受山 勝法寺」と刻んであるお寺さんが、呉市吉浦の国道31号線沿いにあります。心のよりどころだけでなく、災害時の避難所にもなっており、まさに町民の駆け込み寺といえます。後ろを振り向けば、31号線を挟んで対峙している吉浦キリスト教会があるんですね。この31号線沿いには、ほかにも薬師寺派の慈光院や金光教吉浦教会があります。コインランドリーが、道をへだてた勝法寺の向い側にあるので、利用しによく行きますが、その折、勝法寺の本堂まえに佇み、手を合わせ、ごあいさつすることがあります(吉浦東本町で)
境内の名物になっているのが、夏に咲く白い百日紅(さるすべり)。その時期になると、無垢の白花が、参詣する人に安らぎを与えます。壁の向こうは、国道31号線。トラックだのバスだの乗用車、パトカー、救急車、消防車、バイク、自転車、通行人などが、行き来します。勝法寺の境内に佇み、百日紅に見とれていると、ギスギスした俗界と清浄な仏界の違いがわかるような感じがします。
勝法寺の外の白壁に、海抜は2.6mと表示してあります。そして、このお寺は、土砂災害と洪水の指定避難所であることがわかります。地震、津波、高潮の避難所としては指定されていないということですね。表示板を見て覚えたようでも、目をはずせば、どういう時の避難指定所なのか、もう忘れてしまいます。日本語、英語、中国語、韓国語、ポルトガル語で記されていました。
勝法寺の白壁に、半鐘が吊ってありました。合図や知らせるために使うのでしょうか。
吉浦の西側を流れる宮川の路地を歩いていると、蒼い空に気持ちのよい鯉のぼりが泳いでいました。吹き流しに続いて、金太郎が乗っかっている黒い色の強そうなお父さん鯉、それに添うようにやさしい赤いお母さん鯉、そして成長しつつある子どもの青い鯉、さらに一番下には、緑色した幼い子どもの鯉・・・。眺めているだけで、元気をもらえました(吉浦西城町で)。
吉浦の家並みがみえる山の手に上がってみました。あの鯉のぼりが、元気よく、気持ちよく泳いでいました。5月5日の「こどもの日」、鯉のぼりを掲げ、子どもの平安と成長を願う思いが伝わってきました。
国の総人口(2025年2月時点で)1億2,354万人のうち、15歳未満の子供の人口推計は、1,401万人だそうな。次代を担う子供は、国の宝。そんなことを思いながら、「屋根より高い鯉のぼぅりぃ、大きい真鯉はお父さん、小さい緋鯉は子供たぁちぃ、面白そうに泳いでぇるぅ」と、鯉のぼりをながめながら、歌いました。
かつての時代には、軍需物資とか軍需工場とか、軍需産業っていう言葉や単語が、よく使われました。いまもその名称が、JR呉線の吉浦駅近くの踏切に残っています。「旧軍儒部踏切」。国道31号線からこの踏切を渡って行くと、海上自衛隊呉造修補給所貯油所があります。旧軍需部のゆえんです。
よくよくこの踏切の名称をみると、軍需の「需」の字が、「儒」になっています。こんな単語というか熟語は、世の中にはありません。どうしてこんなになったのか。珍名物踏切と思いました。
「非常の際は上のボタンをもどらなくなるまでつよく押して下さい」と踏切のそばに非常用ボタンが設置されています。その説明板には、「旧軍需部踏切」と記してありました。「儒」でなく、「需」でした。この使い方が正しい。
線路脇の大きな柱には、縦書きで、「旧軍需部踏切」と正しく書いてありました。
呉市と広島市を結ぶ国道31号線に、ドライブインのあるのが、呉市吉浦町池田です。天ぷら定食、ラーメン、うどんを扱う店があり、無料トイレ、自動販売機もととのっています。このドライブインから、夕方は、眼前の江田島に夕日が沈む景色を見ることができます。「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」と、口ずさみたくなるムードがただよいます。夕日に、キラキラと瀬戸内海がひかり、カキいかだの浮かぶ夕日の名スポット。ロマンチックな風情を堪能しました。