吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
吉浦側の魚見山トンネルの近くに、パネルと写真が掲示してありました。魚見山トンネルの補修工事に関するものでした。長い歳月を経ているトンネルだから、剥落のおそれと、漏水のおそれがあるということで、剥落防止対策工と漏水対策工をしている、と表示してありました。
漏水対策工では、削岩機のような重機で、トンネルの壁に穴をあけ、水を抜いている光景が写っていました。
補修工事をしていない時は、当然のことながら通行できる魚見山トンネル。長さ860メートル。幅員6.80m。
このトンネルは車が走行すると、音が出ます。吉浦側のこの入り口から、トンネルの半分まで道路に刻みがいれてあるからです。スピードだせば、音はビーンと鳴りますし、通常走行速度では、ぎゅーんという音が、タイヤを伝って運転手に聞こえてきます。音の出る道路ってのは、ほかにもあるのでしょうか。
呉市のシンボル花の「つばき」が、葉は緑、花は赤という色付きでトンネルを飾ってあり、「魚見山隧道」とトンネルの名称が、右から左に横書き表示してありました。昔はトンネルといわずに、隧道と言っていたんですね。
この魚見山トンネルは、昭和22年10月にできたことが分かります。
国土交通省、呉国道出張所の広報・第19号「くれこく」。魚見山トンネルが14~5年のペースで換気設備工事が行われることがわかりますね。
俗に、長寿の象徴として、古来から「鶴は千年、亀は万年」といわれています。なかでも、鶴は、折り鶴、千羽鶴で知られ、瑞鳥・瑞兆と尊ばれていますよね。祝福、病気平癒、見舞いなどに、いろんな使い方をされています。めでたい鶴を帯状の飾り瓦にした塀を、吉浦の「あじさい号」バスの通り道でみかけました。(呉市吉浦松葉町で)
下が石垣塀、上が赤レンガ塀、その中間に鶴をデザインにした飾り瓦が帯状にはめてあるユニークな三位一体の塀を見て歩くのが面白い。
堅い守りの象徴であり、長寿をあらわす吉兆と縁起物の亀。長い尾がついており、いかにも長生きの主としての存在感を感じながら、見歩くのが楽しい。
街なかを散歩していて、道路に面した土蔵をふと見上げました。白壁の上のほうに、、幾何学的な模様があります。家紋なんですね。風雪に耐えてビクともしない歴史の流れを感じます。家紋のデザインをじっと見ていると、なかなか変化に富んでいて面白くて、そのうえ謎めいているように思えました(呉市吉浦東本町で)。
くだんの土蔵の家紋は、アジサイ号のバス通りで見かけました。今も家紋といえば、羽織や留め袖、風呂敷、ネクタイ、塗りの箱、キーホルダー、湯呑み、額縁飾り、瓦、墓など、まあ、いろんなところに使われます。なかでも、土蔵についている家紋は、なんか由緒あるような気がします。
振り返ってみて、この道は味わいのある通りだと感じました。
呉市吉浦の神賀川は、魚見山を源として、吉浦湾に注ぎこみます。緩やかな流れや、急傾斜の流れや、段差のある流れなど、川べりを散策するのが、楽しくなります。中流のこのあたりは、川底に整然と石が組まれており、その両横も石垣がほどこしてあり、気持ちよさを感じます。向こうの山は、つばくろ山。
吉浦新出町の奥まったあたりに、呉市吉浦墓地と誓光寺墓園があり、その最奥に神賀川の表示板が立っています。ここらあたりが神賀川の源流であることが踏査して分かります。表示板のそばに、赤枠で記したもうひとつの鉄製看板が立っていますが、表面が風化して、文字はまったく判読できませんでした。
急流をゆるやかにするために、石段で段差をつける工夫がなされています。傾斜地ゆえの段々になって流れる上流付近の神賀川。
二種類の「急傾斜崩壊危険区域」の表示板が、神賀川の中流沿いに建てられていました。いずれも、新出・神賀地区と記されています。
下流近くでは、神賀川に橋をかけ、車が数台、間隔をあけて停めてありました。川上は、絶好の車庫なんですね。
鉄板で覆った橋や、コンクリートの橋、また家並みを歩きながら見る景色は、味わいがあります。
神賀川の下流では、川の両側が車道・人道になっています。
この時期の上流では、鮮やかなアジサイを愛でることができました。
吉浦東本町の山の手に、すべり台や鉄棒を備えたチビッ子広場という公園があります。そこは三差路になっており、東側の山の斜面に、太い木の模様をかたどったコンクリート木目の段々道があります。ゆっくり、のんびり上がって行くと、視界が広がります。人も上れば、イノシシも上るのでしょうか。天に向かっての一本坂を歩くと、しんどさはあるものの、上りつめたら、気持ちのよいものです。
登り口に、黄色の看板があります。「適正狩猟、脱包の励行、転倒注意、矢先の確認、銃の管理の徹底」と記してありました。な、なんとも物騒。この看板は、広島県猟友会と広島県鉄砲保安協会のものであることが分かります。メインはイノシシ対策なんでしょうね。
イノシシが出没するかも知れないと思えば、このまっすぐな坂階段を上がるのは、あまりいい気持ちがしません。吉浦の山の中では、ところどころで、イノシシの捕獲ケージを目にすることがあります。
畑のまわりには、イノシシが作物を喰い荒らさないように、鉄柵を
施している光景も目にします。
国道31号線の下を流れる神賀川に神賀橋がかかっています。「神賀橋」と記したこの親柱は、少し傷つき、欠けていました。
吉浦東本町の海寄りからみた親柱には、「志んがはし」と刻まれています。よおく見ると、な、なんと、「志」に濁点がついています。こんな字は、学校で習っていません。広辞苑の辞書にも載っていません。「じ」と読ませる、ま、あそび心というべきか。当時のお役所もオツなことなさる。
吉浦東本町側からみた神賀橋の親柱。「昭和14年12月竣工」と記してあり、相当な歳月を経た橋であることが、実感できました。橋の上には、吉浦横断歩道橋がかかっています。
「神賀橋西詰」と、橋の名前が表示されている国道31号線の信号機。
トラック、乗用車、バス、タクシー、バイク、パトカー、救急車、消防車、さらには地元の人などが、国道31号線にあるこの「吉浦隧道」を往来します。トンネルの長さ283.4メートル。幅員6.80m。広島・海田方面から吉浦の街に入る狩留賀町側からのトンネル光景。このトンネルを抜ければ、ロマンあふれる吉浦の街に入ります。
格調ある書体で「吉浦隧道」と記してあります。いまでは、隧道なんて呼びません。トンネルと表現しますよね。古き時代は隧道というのが、あたりまえのことでした。「昭和九年五月」と「吉浦隧道」のそばに刻してあります。
このトンネル入り口には、非常用施設として「押しボタン発信器(事故と火災)」、「非常電話」「消火器」が設置してあります、という説明板。
トンネル内にある非常通報装置の「事故」の押しボタンと、「火災」の押しボタン。あわてずに使い分けをすることになっています。ボタンを押せば、赤ランプが点滅し、関係機関に自動通報するということですよね。右側には、消火器が格納されているようです。
トンネルの中に設置されている非常電話。把手を開けると、話せるようになっています。
トンネルの外にも、非常電話が設置されています。吉浦側から狩留賀方面に向かう光景。
新型コロナウイルスの感染拡大で騒然となった令和2年。補給艦「とわだ422」が、6月16日に、吉浦乙廻りの海上自衛隊呉造修補給所貯油所の第一桟橋に接岸しました。「とわだ」は、全長167.0m、幅22.0m、深さ15.9m、喫水8.1m。基準排水量8.100トンという雄姿です。向いの陸地は、江田島。
令和2年としては、初の接岸じゃないでしょうか。いい時に出会えたので、なんか得したようで、誇らしく感じました。テロ対策特別措置法と新テロ特措法に基づいて、インド洋給油活動に7回参加しているということです。
オレンジ色のオイルフェンスで囲い、ローディング・アームで燃料の補給作業をおこないました。どっしりとした、なめらかな船体は見飽きることがありません。こういう巨体船が、吉浦の街にやってくると、街が活気づくような感じがしました。
海上自衛隊呉造修補給所貯油所の基地は、右側のこんもりとした山の向こう側まで広がっています。これからは、第一桟橋に、いろんな護衛艦が接岸し補給するだろうと思うと楽しみです。
今から1万6千年前頃というと、この地上では、どんなことがあったのでしょうね。縄文時代とか、弥生時代(やよいじだい)のことです。この呼称は、日本列島における時代区分の一つなんですね。紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称が、弥生時代。その頃に、吉浦で生活が営まれたことを示す貴重な石器が出土しています。
呉市吉浦東本町の吉浦まちづくりセンター2階の常設ウインドーには、吉浦で発見された弥生式石器の出土品が無料展示されています。これはもう、必見の値打ちがありますよね。
吉浦東本町で出土した弥生石器の磨製石斧と説明文(吉浦まちづくりセンターで常設公開)。こうしてみると、太古から呉の吉浦は、住みやすい所であったことが想像できます。はるかなるロマンの町であることが、弥生式石器から伝わってきます。
吉浦中町で出土した石斧(吉浦まちづくりセンターで常設公開)。
弥生石器が展示されている吉浦市民センター(吉浦まちづくりセンター)
平成14年発行の呉市制100周年記念版「呉の歴史」。
巻末の呉の歴史略年表に吉浦東本町と吉浦中町から、
弥生時代に、石器が出土したことが記されています。
呉市吉浦にある海上自衛隊呉造修補給所貯油所には、シェパードの警備犬がいます。それも一頭ではなく、18頭。地域交流会で見に行ったことがあります。「坐れ」「行け」「噛め」「探せ」・・・人間の命令を忠実に守る訓練がなされていることが分かりました。
民間の女性が飛び入りで、訓練犬を扱う体験をしました。「かぶれっ」と言ったら、たけりくるって噛みつきました。その時の唸り声と、獰猛な顔、こわかったあ。
貯油所にいる18頭の国際救助犬のパネル。那智号とか、さくら号、ビーナス号など、名前のあとには、「号」がついてました。
熊本地震災害や、広島土砂災害、東日本大災害などに、国際救助犬として、災害派遣活動をする様子が、パネルでよくわかりました。
見学する民間人に、警備犬の役割や救助活動などが、説明でよくわかりました。
青空のもと、ピンク、みどり、青のまあるい大きなプレイ・パラシュート・バルーン(パラバルーン)を、呉市・吉浦の「みのり幼稚園」園児が、しっかりと掴み、軽快な音楽に合わせて、大きくふくらませました。揺らしながら、中に入って縮ませたりと、とてもかわいく華やかな演技。幼稚園の運動会の一コマです。令和2年の幼稚園運動会は、新型コロナウイルス感染防止対策のためにありませんでした。一生懸命にチャレンジする園児らの運動会を楽しみにしています。(吉浦西城町の運動場で)
「そ~れ、あそこまで走ろうね」「そう、そう。手を振って、上手よ」。先生の励ましで、かけっこが進みます。
愉しい音楽が流れるなかで、手をあげたり、おろしたり・・・。園児らのお遊戯マスゲームに、ほのぼのとしたものを感じます。
「あっ、ママ、ころんだ」。ほかの園児も、心配そうに見つめていました。でも、すぐに起き上がって走りだしました。頑張る、という気持ちが、園児たちの体を包んだことでしょう。
JR吉浦駅前から隣町の焼山へ行く県道278号線の吉浦・鍋土峠で、棚田を見ることができます。棚田のいちばん下の段は、睡蓮の池。今がちょうど見ごろ。いくつもの赤い睡蓮が目をひきつけます。
佛様の台座を思わす鮮やかな赤い睡蓮を見つめていると、心が洗われ、清らかにしてもらえるような、いい気持ちになりました。
おたまじゃくしもいました。耳には、ここちよいカエルの声も聞こえて、のどかな田園の風情が楽しめます。
道路脇の睡蓮の池から上の棚田には、稲穂になる苗が天をめざして、すくすく育っていました。
睡蓮池と棚田に向かう途中にある広島県道278号線の道路標識。県木の赤い紅葉のデザインが印象的。右の画像は、278号線・焼山吉浦線の道路沿いに立つ「鍋土峠」の表示板。
呉市の吉浦中町には、恵比須神社があります。小さな神社ですが、地域住民は商売繁盛、開運、豊作大漁などの守護神として敬っています。大体が吉浦という地名が示すように、もともと海に縁のある街なので、民家の塀の上に鯛をもった恵比須さんの飾り瓦などをみかけることもあるほどで、中町の恵比須神社は、古くからこの地に祀られています。(吉浦中町で)
石鳥居の島木(とりき)と貫(ぬき)の間に掲げられている額束(がくつか)には、青銅製で「恵比須神社」と記してあります。
石鳥居の柱には、「昭和二十五年四月吉日」と刻んであるから、この鳥居の奉献した時期が分かります。
秋の恵比須祭りには、吉浦八幡神社の宮司を迎えて、御饌御酒(みけみき)をはじめ、熊手などをお供えし、厳粛に祭事が執り行われます。
秋祭りの沿道には、タコ焼きやビールやうどんなどのコーナーが設けられ、おさがりのご神酒がふるまわれます。ビンゴゲームで景品がもらえるとあって、祭典のあとは、長蛇の列。
恵比須神社通りの民家のベランダからは、餅まきがあり、これを楽しみに老若男女で賑います。
数年前は表示板が苔にや湿った埃で文字が風化・劣化し、何が書いてあるか読めませんでした。新しくなって、「砂防指定地 土石流危険渓流 東宮川」と、はっきり読め、気持ちいい立札になりました。上流は、クレアラインと市道の汐見橋6号線の下を流れ出てきます。左の石段をあがって行くと、吉浦駅と天応を往復するアジサイ号のバス停「上城町」があります。
東宮川の表示板は、住宅地の沿道一カ所だけにあります。吉浦上城町で。
東宮川は、吉浦のなかでは急傾斜渓流の5指に入ります。左手奥のほうには、うっすらとかすむ江田島の山並みが望めました。もっと晴れていたら、瀬戸内海の一部もみることができます。コンクリート沿いを流れてきた東宮川は、主流の宮川に合流します。
川沿いには、手すりが途中までついています。左手には、斜面に桜の大木があり、季節になると桜花爛漫の見栄えがする呉拘置支所の建物があります。
6月10日は時の記念日。日本で初めて時計装置が使われた日を記念して制定されたんですってね。この日を前後して咲く花が時計草。吉浦中町の吉浦小学校の北面通りを歩いていると、時計を連想させる時計草(トケイソウ)が咲いていました。
緑の葉茂る生け垣には、次から次へと時計草が咲くので、毎年6月になると、この散歩コースが楽しみになります。右側の3階建ては、吉浦小学校の校舎。
花の姿というか形が、まさに時計の文字盤に似ていますね。長針、短針、秒針のように見えるから、ついつい、みとれてしまいます。
時計草がほっこりと咲く生け垣を通り過ぎて、足をとめ、ふり返ってみました。青と白と紫の模様が味わい深いですね。
蕾があちこちにあるから、当分は散歩しながら時計草を愛でることができます。
J R吉浦駅に、マルチプル・タイ・タンパー (Multiple Tie Tamper)というオーストリア製の重装備の珍しい車両がやってきました。鉄道の保線用機械の一種です。つまり、タンピング(砂利のつきつき固め)、レベリング(線路の高さの調整)、ライニング(線路の曲がりの修正)を一度に行う大型機械です。
オーストリアの線路工事用重機メーカーの「プラッサー&トイラー」は、英字で記してありました。
牽引されているレールの高低と直線のゆがみ具合を調査する検測車。
最後尾に連結してあるダンピング(砂利のつき固め)、バラスト・コンパクター(砂利の締め固め)を行う作業車。
ワンセットで連結のマルチプル・タイ・タンパーという先頭車両と、それに続く検測車と作業車
先陣をきってお旅所に着いた東町奉賛会の威勢のいい「ちょうさい」(吉浦新町で)
一区自治会・魚見会の「獅子舞い」
魚見会稚児による華やかな「花笠おどり」。この場で、鬼が出てきて獅子を退治する舞いが圧巻。
地酒「水龍」の酒樽にワタリガニが乗っかった二区自治会の「御神酒みこし」。
時折、口からすさまじい白煙を吐きながら進む四区自治会・神龍保存会の「神龍みこし」。
宮花自治会の「御船みこし」。
カニ祭りでお旅所に渡御する「吉浦八幡神社の神輿」。担ぐのは、海上保安大学校の大学生。その後を神主、巫女などが続く。この「神社神輿」のために、お旅所が賑う。すべてのおみこしや、鉦笛太鼓、花笠踊り・獅子舞い・ばくろうのお旅所披露は、「神社神輿」を奉祝するためにあるのです。
「神社神輿」が据えられると、お旅所は荘厳な雰囲気につつまれます。
宮西自治会の6俵をかたどった「御蔵米みこし」。
地酒・水龍の酒樽をのせた10区の「御神酒みこし」。
10俵を乗せた本町自治会の「御蔵米みこし」。
東上祭礼委員会の笛太鼓がしずしずと進む。「神社神輿」のまえで、威勢のよい太鼓と笛の音を響かす。
八区自治会・松葉青年会の「鉦と笛と太鼓」。このあとの暴れ太鼓は目をみはるものがあります。
五区自治会の笛太鼓の列が、「神社神輿」に向かってすすむ。
吉浦の街は、16の地域から成り立っています。郵便番号簿にも、①池ノ浦町、②岩神町、③上城町、④神賀町、⑤新出町、⑥新町、⑦潭鼓町、⑧中町、⑨西城町、⑩東本町、⑪東町、⑫本町、⑬松葉町、⑭宮花町、⑮乙廻り、⑯その他、とあります。地域名の上には「吉浦」という名が冠してあり、吉浦駅だの吉浦支所だの、吉浦小学校、吉浦交番、吉浦郵便局、吉浦大川というように、「吉浦」を使っているのをよく見かけます。
「吉浦橋」もそのひとつ。国道31号線を支え、街の名前をつけた橋です。橋の端にある親柱には、「吉浦橋」と刻まれています。この橋の下を、吉浦大川が流れています。
もう片方の橋には、平仮名で「よしうらはし」。
橋の名前を記した反対側の親柱には、「昭和16年3月竣工」と記してありました。その年には、日本軍がハワイ真珠湾を空襲した年ですよね。つまりは太平洋戦争の開始になった歴史に残る年なんですね。広島県呉市吉浦にあるこの「吉浦橋」を、今までにどれくらいの人や車が通ったことでしょう。国道の奥に見える山は、魚見山です。
海側から眺めた吉浦大川に架かる吉浦橋。向こうの奥の山裾は茶臼山。
呉市の吉浦漁港の最西端に、吉浦ヨットハーバー「夕凪シーサイド広場」があるのを知ってますか。赤いベンチに坐って、瀬戸内海に浮かぶ大麗男島、小麗女島、茫洋と霞んで見える倉橋島、能美島、江田島、また行き交う貨物船を眺めていると、心が和んできます。ああ、青春。吉浦のロマンが、ここにも満ちています。赤いベンチの目の前の屋外囲炉裏には、薪を焚き上げて黒々になった大きなヤカンがかけてありました。目の前のヨットハーバーには、「夕凪」号のヨットが係留されています。なかなかの風情ある趣と感じました。
道のすぐそばには、赤い大理石に、広島県立呉宮原高等学校のヨット部創立50周年記念のモニュメントが建っています。ここは、海上自衛隊呉造修補給所貯油所の正門のすぐ近く。交通量が少なく、静かな一角。隠れた名所ともいえる「吉浦西舟溜り」。いつまでも佇んでいたくなります。
夕凪シーサイド広場の近くには、純白の9艇のヨットが格納されています。
広場の片隅には、ヨットに関するモニュメントがあります。旗を掲げるポールなんでしょうか、それともヨットの帆柱なんでしょうかね。白いドラム缶風の樽や、黒い錨も見ることができます。
こじんまりした瀟洒な建物には、「呉宮原高校ヨット部艇庫」の表札が掲げてあり、味わいのある木製扉や出窓のデザイン、赤い救命具などに、海のロマンを感じます。
吉浦新出町の傾斜を流れる宇根川。川の表示板は、かなり錆びついていました。まだ判読できますが、数年したら、作り直してもらわなくては、と思いながら、表示板の文字を読んでみました。「土石流の発生する恐れがありますので・・・」。はあ、だから危険渓流なんだ、と納得しました。
この宇根川は神賀川へと注ぎこみます。細い川沿いの道から、おっこちないように、ガード柵やガードレールがついています。
絵解き地図のような「砂防指定地 宇根川」の表示板。現在地が中央に白っぽく示してあるのが、ようやく分かります。絵図を見れば、この川の左には、砂防ダムが数カ所あるようです。いや、砂防ダムではなくて、橋かな。川を辿ってたしかめなくては。こういう表示板をみて、川を探訪するのは、楽しいことです。吉浦の街なかを流れる12本の川巡りのおもしろさ。
宇根川沿いの町家の庭に、屯田兵のような門兵の大きな男性ブロンズ像が立っていました。笠帽をかぶりアゴひもでむすび、詰め襟、七つボタンの制服、地下足袋と草鞋を履き、横腹に手を当て、顔を上向きにして遠くを見つめているオブジェ。いつか、お家の人にいわれを聞いてみようと思いました。
新型コロナウイルスの感染防止策で、地元の呉市立吉浦小学校は、分割授業でしたが、6月1日から正常授業になりました。親御さんは、ホッと胸をなでおろしていることでしょう。山の手に近い吉浦の奥の坂道を下り、ランドセルを背に、交通安全の黄色い帽子をかぶる児童たちが、元気よく登校していました。友だちと通学路を歩き、登校する姿は、ほのぼとします。