吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
方角をかえて第2公園のほうから覗いてみました。年代ものの土壁を見ていると、歴史をちょっぴり感じました。
この建物は、びっしりとツタに覆われることがあります。そんなときに見ていると、こ、これ建物なの?、史跡?と、訝しむような思いになります。
吉浦郷土史研究会の「吉浦の史跡マップ」によれば、「用所とは現在の町村役場にあたり、社倉は凶作を救うために組合で設けた備蓄米保管倉。藩制時代の建物である。明治10年~25年には、小学校として使用されたといわれている」と記され、写真も掲載紹介されています。
神賀川の上流一帯には、市や寺の管理する墓苑があります。川に流れ出た「倶會一處(くえいっしょ)」と刻まれた文字の墓石をみました。(吉浦新出町で)
神賀川の石組みの川底にとどまる石灯篭の笠。上流の川底のあちこちに、墓石や墓碑が流れていました。お骨も流されたことだでしょう。悲しい。
大雨により、家の前に積みあがった泥と瓦礫(吉浦新出町)
泥流に埋まった軽自動車。後部ウインドーのガラスがなかった(吉浦新出町で)
巨大な岩石。どのようにしてここに流れ出てきたのだろう。どこにあった巨石なのだろう。ともかく、家をなぎ倒し、尊い人命も奪った雨の凄さが分かります。右側の瓦礫の中にも、大きな岩石がうずまっていました。2年たったいまでは、墓地は平地に、崩れた家は撤去されています。
大船みこしは、八幡神社の境内に入ると、手水舎のそばに建つ角丸神社にごあいさつをします。小さな祠だけど、宮花町にゆかり深い神社。この角丸神社の前を通り、吉浦八幡神社の神殿へと向かうのです。
八幡神社の拝殿に駆け上がって、鎮座ましますご祭神にごあいさつ・ご奉告する宮花子供会の小船みこし。
県道278号焼山吉浦線の路上からの眺め。平林川の石組みの美しさに魅せられる。吉浦の街なかを流れる川は12本ある。川巡りの散歩も楽しい。(吉浦東本町で)
平林川上流には、砂防堰堤(砂防ダム)が、デ、デーンと聳えている。名も知らぬ紫の花が目を引いた。
平林川の堰堤(えんてい)表示板。立ち入ったり、遊んではいけない。あぶない。危険の文字がオドロシイ。
平林川(右)と大川(左)の合流点。平林川が支流で、大川が本流ということなんですね。
上流には吉浦東墓苑があり、道路わきに共同井戸ポンプが据えられている。
吉浦八幡神社の参道から見た標高285mの茶臼山。呉市の「地域紹介 吉浦八景」のホームページには、茶臼山について、写真入りで、次のように記してある。
<志蕗山城ともいう。天分24(1555)年,矢野保木城(城主野間隆実)は毛利元就に攻撃され,落城した。茶臼山城主末永弥六左衛門隆道は,志蕗山城を開城。吉浦は小早川隆景の知行地となった。(小早川氏は吉浦の水軍が欲しかったのである。)>
吉浦の町並みを見おろす山容は、どっしりして形いい。左後ろは、烏帽子岩山。山ふもとにみえる横一直線の高架は、広島市と呉市を結ぶ有料道路の「クレアライン」。
4月の山頂には、山つつじが咲いて、登山の疲れが癒された。アカマツに標高285mと記されていた。
頂上はあちこち岩があるものの、比較的平坦な広場になっているところが2、3カ所ある。
毎年元日には、山のぼりが好きな地元の有志が登頂し、ご来光を拝し、「君が代」を斉唱しつつ、日の丸を掲揚する。
朝もやの茶臼山山頂から、吉浦小学校や、吉浦運動場、吉浦まちづくりセンター、高層マンションなど吉浦の街なみと吉浦湾を一望する地元の人たち。右手前方が火山(ひやま)で、左側に魚見山の裾野が見える。海上保安大学校の先に、大麗女島がぽっかり浮かんでいるように見えた。
額に入れた連獅子、のし飾り、籠と花、朝日に鶏の布軸など、和会(なごむかい)の手づくり作品コーナー。
自然の風景を再現しながら松などを自分で仕立て、飾って楽しむのが盆栽。すがた形をめでる盆栽コーナー。
横額「無料壽」、立て額「此中有真意」など、力作がならぶ女性書道コーナー。
季節の花を使ったいけばなコーナー。
吉浦文化団体連絡協議会と吉浦まちづくりセンター主催による「ウオーキング」が、年3回行われます。吉浦東本町からクレイトンベイホテル近くの築地町二川公園まで(画像)や、落走・呉ポートピアなど。ことし春のウオーキングは、新型コロナウイルス感染の拡大防止で、中止になりました。
二川公園往復8キロのジョギングでは、国道31号線の上にある吉浦横断歩道橋を渡り、神賀川のそばを歩きました。
高さ30メートルの二本の煙突があるクレトイシ工場のそばを歩くウオーキング参加者。
ウオーキングコースは、平坦な道ばかりではありません。歩道橋の階段あり、車道と歩道の区分けのない道あり、坂道あり、平坦な道あり、細い道、広い道、曲がり道など、歩けば色んなものが目にうつり、面白くなります。
出発まえには、吉浦まちづくりセンターの柱に貼られた手書き地図で、ウオーキングコースの説明がありました。
ウオーキングをするにあたって、手足、体のウオーミングアップ体操をしました。
平成30年の7月、西日本豪雨で鉢巻山連山の一カ所に、土石流が発生。いまも生々しい爪痕がある。
鉢巻山の頂上にある基本測量の白木と、コンクリートに刻まれている三角点。
山頂には、手書きで標高だの山の名前だのが、松の大木に掲げてあった。
NHKの電波塔が、三角点から100mくらい離れたところに建っている。
倒木が、登山道をふさいでいた。
岩がゴロンと通り道に転がり出ていた。
「保健保安林」という表示板が途中にたててあった。地形図には、「呉市荘山田村」という文字がかろうじて読める。
新型コロナウイルスの影響でプロ野球の開幕は延期中ですが、カープ電車は11月下旬まで、沿線で見ることが楽しみですね。
車体には、広島カープ選手の写真や「がんばれカープ」などの応援メッセージがくっきり描かれています。見ていると、何か、ウキウキしてきますよね。
運転台前面には、今年のキャッチフレーズ「たった今 このAKAの子 舞いたった」のロゴを使ったシール式ヘッドマークがついていました。
これまで毎年デザインを替えたカープ・ラッピング電車が吉浦駅にきました。赤と白の交互の4両編成の電車もよかったなあ。
数年前のカープ電車。吉浦駅でカープ電車と遭遇できた時は、感動しました。
吉浦宮花町の宮花川そばに、「大本山 薬師寺派 慈光院」があります。大木を平板にして大書した看板。つい見とれて佇みました。(吉浦宮花町で)
お寺の人に聞くと、昭和60年代に創建され、薬師如来がいらっしゃるそうな。「8のつく日にはお経をあげているから、どうぞ」と自由参拝ができることを知りました。広い駐車場も備わっていました。後ろのビルは、14階建ての自衛隊宿舎(吉浦宮花町で)
庭には、子安地蔵尊が立っていました。宮花川のそばにある小径に向いており、道ゆく人をやさしく包み込むふくよかなご尊顔が印象的です。
吉浦トンネルの出入り口すぐの国道31号線沿いにある慈光院の白梅の古木は、春先になると、見事な花を咲かせます。
上城公園の入り口から見た桜花
吉浦には、細道、坂道、曲がり道が網の目のようにはりめぐらされています。地元の人なら、いつも行き交う何の不思議もない小道ですが、よそから訪れる人には、なかなか覚えにくい道がいくつもあります。
山の手あたりの吉浦松葉町の路地を、歩いてみました。おや、こんなところに、共同井戸のようなものがある、と珍しいものに出くわすのも、散策の楽しさですね。道しるべのような井戸です。小さい子が、落っこちないように、頑丈な鉄製の柵がしてありました。
反対側に回ってみました。周囲はしっかりした石組み。上にも、重いコンクリートの蓋で固定してありました。遠い昔の水利用が偲ばれます。(吉浦松葉町で)
昭和レトロを感じさせてくれるところが楽しい。古い、古い、年代ものの看板や建物は、郷愁を誘いますよね。
内部からカーテンがかけられ閉店した佇まい。いつかまた何かのお店が新装オープンすることが楽しみです。
薬局の大看板はあってもこの薬局はもうありません。クリーニングの看板もありますが、閉店しました。
呉市立吉浦小学校の正門に、桜が満開になりました。校庭には、大木の桜も咲きました。でも、3月2日から、新型コロナウイルスの感染防止のため23日まで休校。そして春休み・・・桜咲けども、児童の声は聞こえてきません。ウキウキする春なのに、さみしい、むなしい。正門の桜が、4月の児童の登校を待ちかねているようです。
吉浦小学校の北面には、二宮尊徳の石像があります。歩きスマホは危険という現代ですが、歩き読書ができたかつての時代っていうのは、のどかだったのですね。勉学に勤しむお手本としての二宮尊徳像は、新型コロナウイルスで右往左往する世相を、どう感じるのでしょうか。
茶臼山の東の麓を源とする吉浦の寺山川。吉浦集会所の近くでは、気持ちのよい石畳みの川床を楽しむことができます。流れにそって小道をゆけば、春から初夏は、ニオイバンマツリやカンナなどの花を愛でることもできます。秋になれば、この位置から、柿の鈴なりを目にすることができます。(県道278号 焼山吉浦線の道路からの眺め)
寺山川が見渡せる民家のそばに咲く鮮やかなゼラニウム。自治会の手によって、毎月、川掃除があり、環境美化が保たれています。
上流には、「土石流(危険)渓流」の白い表示板が立ててありました。<危険>という文字は風化していますが、近づいてよくよく見ると、判読できました。大雨の時は土石流が発生する恐れがある、なあんて怖い文面が印象に残りました。
ずーと上流に行くと、坂道に沿って寺山川が流れています。井戸があったり、瀬戸内海や江田島も見えました。
有料道路クレアラインの高架の下には、「砂防指定地 寺山川」の表示板がありました。等高線と付近の道路や路地が書き込んであります。クレアラインが横に太く茶色で書いてあるから、大体の位置関係がわかります。こういう表示板の絵ときをするのも、散歩の楽しみです。
源流に近い寺山川の砂防堰堤には、かなり風化した「砂防指定地」の表示板が掲げられていました。砂防ダムに立ち入ったり、貯水池で遊ばないで、と書いてあるのが読めました。
吉浦集会所の入り口から見た石畳の寺山川。ゼニアオイの花が、安らぎを与えてくれます。
呉市制百周年記念事業「吉浦」を称える歌募集で最優秀作品になった清水公男さんの「吉浦の言い伝え」。この文書は、吉浦まちづくりセンターで行われた成人式や老人会で配布されたことがある。
「昔むかしのその昔 いと住みやすき吉浦と和歌に詠まれたふるさとの 昔を語る言い伝え」ではじまり、「お菊のガンギ潮見の穴 むかし話に花が咲く 語り継ごうよ何時までも われらが町の言い伝え」で終わる。
吉浦八幡神社のカニ祭りには、さまざまなおみこしが繰り出ます。その中で、ちょっと変わったのが、この神龍みこしです。金のウロコでおおわれた龍は、それはそれは大きな龍で、とぐろを巻いています。あけた口には、宝珠をくわえていて、時々「ゴー」というすさまじい音とともに、白い息を吐き出します。圧巻な絵巻の連続。町内を練り歩き、吉浦本町のアーケードをくぐり抜け、石の大鳥居をくぐり、神社にやってきます。さあ、この秋も、神龍保存会(5区自治会)の神龍みこしを観るのが楽しみ。(吉浦西城町で)
神社本殿に駆け上がって白煙を吐く神龍みこし
吉浦の11カ所の自治会のだんじりやおみこし、笛鉦太鼓など出し物が、神社の103段の石段を上がったり(宮上がり)、下がっていく(宮下がり)順番と大まかな時間は、一覧表になって示されます。宮下がりでは、神社の神輿が、お旅所に向かうために、宮下がりをすることが、一覧表で分かります。
大正11年の祭りの申し合わせ(誓約書)。当時は、自治会といわず、分団と呼称していたことが分かります。分団は、友、松葉、西、松、箱、中正、龍、東、岩西があったんですね。
白い柱のように見えるが、これは1894~1895年の日清戦争の時のめずらしい砲弾。吉浦八幡神社の境内に献納されている。「明治廿七八年之役依清国威圧海衛戦沈之際収容タル砲艦十尹前装砲榴弾紀念之為俸置ス 明治廿九年(1896年)八月」と刻まれている。
献納されてからの最初の砲弾は、年月を経るほどに風化し、錆びて、文字が判読できなくなった。台座には鉄サビが沁み込み、幾星霜の歴史を物語っていた。
吉浦八幡神社の手水舎。銅板で葺いた屋根、四方転びの檜の太い柱。どっしりとした何とも気持ちのよい手水舎であると感じた。
境内の一角には、鎮座地、御祭神、由緒、祭日が記されている。
さらに八幡神社の奥の境内には、摂末社が六社(厳島神社、金比羅社、荒神社、大歳神社、東浜神社、角丸神社)ある。これら六社は、明治時代より呉市を軍港として開くにあたり、国策により、各地区に存在していた神社を、すべて境内地に移転されたものである。
町民が正しい情報を共有するために、吉浦ではスピーカーによる広報や、自治会の回覧板、街角における掲示板など、さまざまな工夫を施しています。町内の広報紙「つばさ」もそのひとつ。「つばさ」は、毎月一回、吉浦まちづくりセンターで発行しています。パソコンやスマホからも、読むことができるようになっています。
吉浦の動向を知る上で、身近で頼りになる広報紙がいろいろ発行されています。たとえば、右から、吉浦地区青少年補導員連絡協議会発行の「よしうら」、吉浦地区社会福祉協議会発行の「吉浦社協だより」、吉浦地区交通安全推進協議会発行の「交通安全よしうら」。さらには、街づくりについての冊子「吉浦地区まちづくり計画書」というのもあります。
吉浦と焼山を結ぶ県道278号線の途中に、鍋土峠方面と鳴滝(なるたき)・烏帽子岩山方面の案内標識を目にすることができます。吉浦の観光名所のひとつ「鳴滝」の道標。
表示された道を行くと、「鳴滝」という立札があり、茂みの奥にゴツゴツした岩があり、その岩に水が流れ落ちる滝が見えました。吉浦の鳴滝(なるたき)です。
「ここは鳴滝 清らかに 鳴は滝の水」という白い文字の立て札が、道そばの近くにありました。杭には、「鳴滝」と記してあります。
鳴滝を眺めていると、気持ちよくなります。滝の水は、やがて吉浦大川に流れ込みます。
鳴滝に行く途中にある宝くじの普及宣伝事業として整備された案内板。「中国自然歩道」「烏帽子岩山ルート」と大書されたこの案内板に、鳴滝の写真と現在地の地図が記されています。