吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
呉市の吉浦八幡神社では、7月第3日曜日に、どろおとしという夏越大祓いが催されます。しかし、2020年は、新型コロナウイルスの感染防止のため、中止のやむなきにいたりました。茅の輪くぐりには、境内の石鳥居にもうけられ、作法にのっとり輪をくぐる厳かな神事。一人で、家族で、恋人同士で、とさまざまに地元の人たちが訪れます。(吉浦西城町で)
茅の輪をくぐり、神殿で敬虔な祈りを捧げる参詣者。
罪や穢れを神様に落としてもらう「泥落とし」の夕方になると、三々五々に茅の輪くぐりに訪れる。
「どろおとし」の神事である茅の輪くぐりの意義を綴った案内文。
自治会掲示板に貼り出された2020年(令和2年)の「夏越え大祓い・茅の輪くぐり」中止の知らせ。
こんもり茂った吉浦八幡神社の社叢では、春四月の第二日曜日に、御霊(みたま)なごめの慰霊祭が行われます。神社の祭主が祝詞を奏上し、参列者は敬虔な慰霊の誠を捧げます。2020年は新型コロナウイルス感染防止のため、中止になりました。(吉浦西城町で)
忠魂碑のまえでは、町民が集うなか、古式ゆかしく厳かに舞いを奉納する巫女。
巫女舞いによる御霊(みたま)なごめは、かつての戦争で散華した英霊をやさしく鎮めます。
中央の忠魂碑は、1956年(昭和31年)10月に建立されました。碑の裏には、満州事変(昭和6年~昭和8年)と、大東亜戦争(昭和16年~昭和20年)の戦病死者396名の名前が刻まれています。左の石碑は、1906年(明治39年)4月に建立された凱旋記念碑。日露戦争凱旋者95名、日露戦争時の留守師団服役者18名、北清事変凱旋者38名、日清戦争凱旋者16名の名前が刻まれています。右側の石碑は、凱旋紀念碑と同時に建立された戦病死者紀念碑。日露戦争戦死者6名、清国事変戦病死者2名、台湾守備病死者1名、日清戦争病死者2名の名前が刻んであります。
呉市の吉浦中町には、恵比須神社があります。小さな神社ですが、地域住民は商売繁盛、開運、豊作大漁などの守護神として敬っています。大体が吉浦という地名が示すように、もともと海に縁のある街なので、民家の塀の上に鯛をもった恵比須さんの飾り瓦などをみかけることもあるほどで、中町の恵比須神社は、古くからこの地に祀られています。(吉浦中町で)
石鳥居の島木(とりき)と貫(ぬき)の間に掲げられている額束(がくつか)には、青銅製で「恵比須神社」と記してあります。
石鳥居の柱には、「昭和二十五年四月吉日」と刻んであるから、この鳥居の奉献した時期が分かります。
秋の恵比須祭りには、吉浦八幡神社の宮司を迎えて、御饌御酒(みけみき)をはじめ、熊手などをお供えし、厳粛に祭事が執り行われます。
秋祭りの沿道には、タコ焼きやビールやうどんなどのコーナーが設けられ、おさがりのご神酒がふるまわれます。ビンゴゲームで景品がもらえるとあって、祭典のあとは、長蛇の列。
恵比須神社通りの民家のベランダからは、餅まきがあり、これを楽しみに老若男女で賑います。
呉市の吉浦松葉町に、観音堂があります。ちょっと入り込んだ個人のお庭にあるから、入りずらいようですけど、出入りや参詣は自由にできるのです。ベンチも置いてあり、腰かけて、心ゆくまでゆっくりできるところです。細道坂道まがり道を迷わず辿りつけば、松葉の十一面観音さまが迎えてくださいます。(吉浦松葉町で)
廣寂寺観音堂という墨書の立板。正式名称なんて知らない人が多いのではないでしょうか。「吉浦の昔ばなし集」に、観音堂の庭一面にドングリの実が落ちる頃、<どんぐり祭り>をしたという話がでてくるのは、この松葉の観音堂のことです。
旧暦9月17日には、提灯、ノボリ、日の丸が掲げられ、観音祭りが行われます。誓光寺のお坊様がみえてお経を唱え、お話が聞けます。
細道がふたまたに分岐する民家の石垣そばに、観音堂への目印があります。矢じるしの方向へ歩いていけば、ほどなく観音堂に着きます。
吉浦には、浄土真宗のお寺さんがあちこちにあります。その一つが、吉浦中町の大心寺。通りから拝見すると、正門の上には、な、なんと、いきなり白とブルーのツートンカラーの鉄パイプ橋がしつらえてありました。普通、お寺さんといえば、荘厳な雰囲気を醸していますが、このお寺さんは、庶民側に立ったユニークな子供の楽園だと感じました。(呉市吉浦中町で)
ちょっと覗いてみると、親鸞和尚さまの銅像に迎えられます。その奥のほうには、すべり台がみえます。幼な子を対象にした遊具。ははあ、正門の左手のほうから幼な子がパイプ橋を通って、このすべり台に至るのだということが分かりました。このお寺の向こう側に、大心保育園があるから、園児たちが、本堂でおまいりをして、ここで遊ぶこともあるのかなと思いました。
笠岩山大心寺と記された掲示板には、「人生の苦はすべて如来の励ましである」という書が貼ってありました。うーん、含蓄ある言葉と感動しました。お寺さんの掲示板は、随時、人生を導くかしこくも尊い言葉が貼り出されるんですね。
おおきな御影石に、「浄土真宗本願寺派 永受山 勝法寺」と刻んであるお寺さんが、呉市吉浦の国道31号線沿いにあります。心のよりどころだけでなく、災害時の避難所にもなっており、まさに町民の駆け込み寺といえます。後ろを振り向けば、31号線を挟んで対峙している吉浦キリスト教会があるんですね。この31号線沿いには、ほかにも薬師寺派の慈光院や金光教吉浦教会があります。コインランドリーが、道をへだてた勝法寺の向い側にあるので、利用しによく行きますが、その折、勝法寺の本堂まえに佇み、手を合わせ、ごあいさつすることがあります(吉浦東本町で)
境内の名物になっているのが、夏に咲く白い百日紅(さるすべり)。その時期になると、無垢の白花が、参詣する人に安らぎを与えます。壁の向こうは、国道31号線。トラックだのバスだの乗用車、パトカー、救急車、消防車、バイク、自転車、通行人などが、行き来します。勝法寺の境内に佇み、百日紅に見とれていると、ギスギスした俗界と清浄な仏界の違いがわかるような感じがします。
勝法寺の外の白壁に、海抜は2.6mと表示してあります。そして、このお寺は、土砂災害と洪水の指定避難所であることがわかります。地震、津波、高潮の避難所としては指定されていないということですね。表示板を見て覚えたようでも、目をはずせば、どういう時の避難指定所なのか、もう忘れてしまいます。日本語、英語、中国語、韓国語、ポルトガル語で記されていました。
勝法寺の白壁に、半鐘が吊ってありました。合図や知らせるために使うのでしょうか。
吉浦宮花町の宮花川そばに、「大本山 薬師寺派 慈光院」があります。大木を平板にして大書した看板。つい見とれて佇みました。(吉浦宮花町で)
お寺の人に聞くと、昭和60年代に創建され、薬師如来がいらっしゃるそうな。「8のつく日にはお経をあげているから、どうぞ」と自由参拝ができることを知りました。広い駐車場も備わっていました。後ろのビルは、14階建ての自衛隊宿舎(吉浦宮花町で)
庭には、子安地蔵尊が立っていました。宮花川のそばにある小径に向いており、道ゆく人をやさしく包み込むふくよかなご尊顔が印象的です。
吉浦トンネルの出入り口すぐの国道31号線沿いにある慈光院の白梅の古木は、春先になると、見事な花を咲かせます。
白い柱のように見えるが、これは1894~1895年の日清戦争の時のめずらしい砲弾。吉浦八幡神社の境内に献納されている。「明治廿七八年之役依清国威圧海衛戦沈之際収容タル砲艦十尹前装砲榴弾紀念之為俸置ス 明治廿九年(1896年)八月」と刻まれている。
献納されてからの最初の砲弾は、年月を経るほどに風化し、錆びて、文字が判読できなくなった。台座には鉄サビが沁み込み、幾星霜の歴史を物語っていた。
吉浦八幡神社の手水舎。銅板で葺いた屋根、四方転びの檜の太い柱。どっしりとした何とも気持ちのよい手水舎であると感じた。
境内の一角には、鎮座地、御祭神、由緒、祭日が記されている。
さらに八幡神社の奥の境内には、摂末社が六社(厳島神社、金比羅社、荒神社、大歳神社、東浜神社、角丸神社)ある。これら六社は、明治時代より呉市を軍港として開くにあたり、国策により、各地区に存在していた神社を、すべて境内地に移転されたものである。