吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
吉浦の最南端の橋が、潮風で茶色に錆びついたガードレールのある本川橋です。欄干からは、大麗女島と小麗女島、さらには倉橋島と東能美島を見ることができました。右側は14階建ての藤和ハイタウン吉浦。カニ祭りには、この本川橋を通って、ちょうさいや俵、神龍、御船、酒樽などのおみこしなどが往復します(吉浦新町で)。
「ほんかわはし」と記された銘板が、ほとんど取れかけそうになっていました。
「吉浦大川」という銘板はしっかり付いていました。
本来ならば、山手側のガードレールにも銘板があるはずですが、見当たりません。
茶臼山の裾が見える北側方向の眺め。ガードレールのあるこの「本川橋」の向こうには、JR呉線の鉄橋が見えました。
「ほら、見てごらん。お魚がいるでしょ」「せんせい、どこ、どこ?」「あっ、いた!!」。吉浦のみのり幼稚園の園児たちが、「中通り橋」ちかくの大川を覗いています。
吉浦小学校のそばを流れる大川の下流にあるのが、中通り橋。橋の両側に、漢字と平仮名の銘板が、それぞれとりつけてあります。左の路地を川沿いに進むと、吉浦小学校へたどり着きます。いま、ここらあたりの大川では、何やら工事がはじまっており、梯子が川にかかっていました。
この位置からだと、左側が吉浦中町、橋を渡った右側が吉浦東本町ってことになります。町名の表示板のずっと高い瓦の上に、大黒様が通る人を、じっと見守っているように感じました。
橋の下を流れる川は、「おおかわ」。川の銘板が橋に取り付けてあります。
川におっこちないように、白い鉄製パイプの柵が施してあり、橋にも縦のパイプが何本もありました。児童やお年寄りの安全に配慮されていることが、伝わってきますよね。
陽を浴びて、のぼりが、気持ちよくはためいていました。よく見ると、錨マークとカキをデザインにした「呉産かきは日本一」の二種類ののぼり。カキは、今が旬なんですよね。吉浦町池田の沖合や、倉橋島の音戸などでカキ筏をみることができます。カキは、スーパーの魚コーナーで見かけますし、全国発送しているお店もあります。こののぼりは、吉浦漁港に架かる西浜橋で、パタパタとはためいていました。
「知っていましたか 掃除をする事で 心の中まで きれいになることを。知っていましたか ゴミを捨てる事で 心の中まで よごれていくことを」と。ガードレールの橋の欄干にある美化意識を高める吉浦漁業協同組合の詩です。近頃は、プラゴミが国際的な規模で問題視されてますよね。ポイ捨てから海洋投棄…。考えさせられる詩ですね。
「にしはまばし」という銘板が、ガードレールの欄干の端に貼りつけてありました。
呉市吉浦には、国道31号線があり、その国道をまたぐ唯一の陸橋「吉浦横断歩道橋」が、化粧直しをして、見違えるようにきれいになりました。向こうのお山は、茶臼山です。
きもちのよい青空、緑の山並み、そして薄緑の吉浦横断歩道橋。橋の下には、神賀川が流れています。
手すりにとりつけてある青銅板には、「吉浦横断歩道橋」と記してあります。
天に向かってのびているような数十段の階段。まさに空をわたる橋といえます。上がり切ったら、赤茶色の道が、ほんのちょぴり盛り上がっています。
吉浦横断歩道橋をおりていくところに、神賀川がおだやかに流れています。吉浦湾に近いここらあたりは、満潮になると、水位がグンとあがり、ボラの子やフグの子が泳いでいるのをみかけことがあります。
国道31号線の下を流れる神賀川に神賀橋がかかっています。「神賀橋」と記したこの親柱は、少し傷つき、欠けていました。
吉浦東本町の海寄りからみた親柱には、「志んがはし」と刻まれています。よおく見ると、な、なんと、「志」に濁点がついています。こんな字は、学校で習っていません。広辞苑の辞書にも載っていません。「じ」と読ませる、ま、あそび心というべきか。当時のお役所もオツなことなさる。
吉浦東本町側からみた神賀橋の親柱。「昭和14年12月竣工」と記してあり、相当な歳月を経た橋であることが、実感できました。橋の上には、吉浦横断歩道橋がかかっています。
「神賀橋西詰」と、橋の名前が表示されている国道31号線の信号機。
吉浦の街は、16の地域から成り立っています。郵便番号簿にも、①池ノ浦町、②岩神町、③上城町、④神賀町、⑤新出町、⑥新町、⑦潭鼓町、⑧中町、⑨西城町、⑩東本町、⑪東町、⑫本町、⑬松葉町、⑭宮花町、⑮乙廻り、⑯その他、とあります。地域名の上には「吉浦」という名が冠してあり、吉浦駅だの吉浦支所だの、吉浦小学校、吉浦交番、吉浦郵便局、吉浦大川というように、「吉浦」を使っているのをよく見かけます。
「吉浦橋」もそのひとつ。国道31号線を支え、街の名前をつけた橋です。橋の端にある親柱には、「吉浦橋」と刻まれています。この橋の下を、吉浦大川が流れています。
もう片方の橋には、平仮名で「よしうらはし」。
橋の名前を記した反対側の親柱には、「昭和16年3月竣工」と記してありました。ということは、79年まえに出来たっていうことですよね。歴史あるこの吉浦橋を、どれくらいの人や車が通ったことでしょう。
海側から眺めた吉浦大川に架かる吉浦橋。向こうの奥の山裾は茶臼山。
吉浦・神賀川の上流に、コンクリートづくりの赤木橋が架かっています。神賀川には、無名の橋や名前のついた神賀橋など数多い橋を見ることができますが、この赤木橋は親柱に白い大理石をはめて、橋の名前が記されています。橋の表札ともいうべき親柱の両端四カ所に、大理石を使ってあるのは、吉浦ではこの赤木橋だけです。珍しいというか、手の込んだつくりに、橋をつくった心意気を感じました。この橋を通って山の方向に進むと、二年前夏の集中豪雨で、土砂崩れで墓も骨も流れ去ったあの谷間に向かいます(吉浦新出町で)
幾星霜も風雪に耐えているのでしょう、親柱が傷んでいました。平仮名で「あかきはし」と橋の名前を刻んだ大理石も、上のあたりが黒っぽくなっていました。
「しょうりはし」と木製の銘板が埋め込まれていました。彫刻刀で彫ったのでしょうか。もう風化して、首を曲げたり、近づいたりして、やっと判読できました。コンクリートの欄干のデザインを摸してある、上が円形、下が水平切り、縁どりがほどこしてある手作りのような楽しい木製銘板と思いながら見つめました。
もう一方の橋の親柱には、「昭和二十八年三月竣功」と刻んでありました。木目を見ていると、風雪に耐えた長い歳月がにじんでいることが伝わってきました。
時代小説ものに、藤沢周平さんの「橋ものがたり」という短編小説(10篇)がありますよね。橋で会う約束やすれ違い、出会い、通行などから起こる人情もの、世話もののドラマに、ついホロリとさせられます。この勝利橋でも、さまざまなできごとがあることでしょう。さて、頑丈な橋を渡って、もう少し散歩してみましょう。向こうの山は、魚見山。