吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
吉浦で活躍した人物評伝を知るうえで、よい本に巡り合えました。その本は、呉市芸術文化功労賞を受賞した商工会議所理事で呉市議会議員だった上田繁さん(故人)が出版した「眼鏡橋往来」です。中国新聞に、昭和40年9月から翌年11月まで連載された「眼鏡橋往来」が本になり、読んでみました。出版によせて、呉市長(当時)の奥原義人さんは、「織りなす人間模様に奥深く触れられているので、殊更に興味が深い……呉市の歴史を支えてこられた先人の偉業を学び、新生呉市の街づくりに、新たな意欲燃やすところとなればと、ひたすら祈って止まない次第である」と記しています。
全251頁にわたる昭和49年2月28日発行の「眼鏡橋往来」の目次。そのなかで、「医者」(140頁目)という項目は、100頁を超す内容で、吉浦の医者の活躍など目をみはるものがありました。
古きを訪ね新しきを知る温故知新という言葉があるように、ルーツをたどり今昔を較べるのは楽しいことです。
吉浦中学校PTA写真集「吉浦の歩み」(平成9年4月21日)発行に掲載されている「吉浦村絵図」を見ていると、興味が尽きません。この絵図は、天保10(1839)年以降、同13年までの絵図と推定されるそうな。北に「焼山境」、東に「庄村境」、西に「か連い崎」、南に「魚見山」とあり、絵図をクルクル回してみました。城山(茶臼山)の周辺には、光寂寺など三つのお寺があったことがわかりました。
吉浦中学校創立50周年記念に刊行された写真集「吉浦の歩み」の表紙。①風景と街並み、②世相の推移、③経済の発達、④交通、⑤教育と文化、⑥社会、⑦趣味・娯楽・遊び、⑧夏の思い出・狩留賀、⑨吉浦中今昔物語、⑩沿革、⑪年表、とわかりやすく吉浦を紹介しています。
あの絵図の天保10年から181年を経たいま、吉浦の高台から南の瀬戸内海側を眺めてみました。「吉浦の歩み」の<沿革>の項に、「吉浦町においては、弥生式土器の破片や昭和5(1930)年と翌6年、磨製石斧1個ずつが発見されている」と解説されています。ならば吉浦には2000年前から人が住んでいた・・・、と壮大なロマンを思わずにはおれません。
呉市制百周年記念事業「吉浦」を称える歌募集で最優秀作品になった清水公男さんの「吉浦の言い伝え」。この文書は、吉浦まちづくりセンターで行われた成人式や老人会で配布されたことがある。
「昔むかしのその昔 いと住みやすき吉浦と和歌に詠まれたふるさとの 昔を語る言い伝え」ではじまり、「お菊のガンギ潮見の穴 むかし話に花が咲く 語り継ごうよ何時までも われらが町の言い伝え」で終わる。
昔の人びとは、どんな事を考え、何を後世に伝えたいと思ったのでしょうか。その答えが、民話・伝承・史実にまとめた本になっています。その本が、「吉浦の昔ばなし集」と、「吉浦の昔ばなし集(続編)」の二冊です。吉浦の文化を進める会が発刊した本です。
第一集の「吉浦昔ばなし集」には、「お菊のガンギ」「どんぐり祭」「首銭平の伝説」「女神さまの古里」など、民話のほかに、「シベリヤ鉄道に従軍した吉浦の石工たち」(=画像)の歴史もの、吉浦古来の行事や地名、植物の由来話、人間の業をあらわにする因果応報の話など、面白い話や不思議な話、悲しい話など20話が収録されています。
「吉浦昔ばなし集・続編」には、「与八と天狗」(=画像)「天狗」「安芸の普門さん」「吉浦の屋号について」等々、物語5話、人物4話、研究物4話からなる13篇が掲載されています。