吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
JR呉線には、相当数のトンネルがあります。三方を山に囲まれた吉浦には、西側の海田方面に、第一軽貨トンネルがあります。広島駅に向かう3両編成の電車レッドウィングが、第一軽貨トンネルへ、まるで吸い込まれるように入って行きました。
吉浦と隣町の狩留賀町を結ぶ鉄道専用の「第一軽賀トンネル」を、吉浦側からみた光景。「狩留賀」という文字でなく、「軽賀」と命名されたのは、どういうことなのでしょうかね。
吉浦側の坑口に、「第一軽賀 L443.0M」の銘板が取りつけてありました。
第一軽賀トンネルの吉浦側坑口ちかくには、緊急連絡用の電話ボックスがありました。
ノーベル文学賞受賞作家・川端康成さんの小説「雪国」に、<トンネルを抜けると雪国であった…>なる有名な文がありますよね。吉浦には、雪はほとんど降りません。この「落走隧道」を抜けると、何の変哲もない樹木と霞む山と空でした。
吉浦の山の手から隣町の長谷町に抜けるトンネルができたのは、今から30年まえの1989年のことなんですね。人も車も通れる対面通行のこのトンネルの名称が「落走隧道」。地元の人が行き来するくらいで、交通量は多くありません。(吉浦上城町)。
申し訳程度に、トンネル入り口に、「落走隧道」の小さなプレート板が取りつけてありました。
長さ178.メートル幅員は8.30m。歩道は一段高くなっており、白い鉄製パイプが、人道と車道を分けています。短いトンネルだから、非常電話とか消火器などは備わっていませんが、オレンジ色の電灯が灯っているいたってシンプルなトンネルです。
トンネル付近に、「落走隧道」という乗り合いタクシー「あじさい号」のバス停がありました。
吉浦側の魚見山トンネルの近くに、パネルと写真が掲示してありました。魚見山トンネルの補修工事に関するものでした。長い歳月を経ているトンネルだから、剥落のおそれと、漏水のおそれがあるということで、剥落防止対策工と漏水対策工をしている、と表示してありました。
漏水対策工では、削岩機のような重機で、トンネルの壁に穴をあけ、水を抜いている光景が写っていました。
補修工事をしていない時は、当然のことながら通行できる魚見山トンネル。長さ860メートル。幅員6.80m。
このトンネルは車が走行すると、音が出ます。吉浦側のこの入り口から、トンネルの半分まで道路に刻みがいれてあるからです。スピードだせば、音はビーンと鳴りますし、通常走行速度では、ぎゅーんという音が、タイヤを伝って運転手に聞こえてきます。音の出る道路ってのは、ほかにもあるのでしょうか。
呉市のシンボル花の「つばき」が、葉は緑、花は赤という色付きでトンネルを飾ってあり、「魚見山隧道」とトンネルの名称が、右から左に横書き表示してありました。昔はトンネルといわずに、隧道と言っていたんですね。
この魚見山トンネルは、昭和22年10月にできたことが分かります。
国土交通省、呉国道出張所の広報・第19号「くれこく」。魚見山トンネルが14~5年のペースで換気設備工事が行われることがわかりますね。
トラック、乗用車、バス、タクシー、バイク、パトカー、救急車、消防車、さらには地元の人などが、国道31号線にあるこの「吉浦隧道」を往来します。トンネルの長さ283.4メートル。幅員6.80m。広島・海田方面から吉浦の街に入る狩留賀町側からのトンネル光景。このトンネルを抜ければ、ロマンあふれる吉浦の街に入ります。
格調ある書体で「吉浦隧道」と記してあります。いまでは、隧道なんて呼びません。トンネルと表現しますよね。古き時代は隧道というのが、あたりまえのことでした。「昭和九年五月」と「吉浦隧道」のそばに刻してあります。
このトンネル入り口には、非常用施設として「押しボタン発信器(事故と火災)」、「非常電話」「消火器」が設置してあります、という説明板。
トンネル内にある非常通報装置の「事故」の押しボタンと、「火災」の押しボタン。あわてずに使い分けをすることになっています。ボタンを押せば、赤ランプが点滅し、関係機関に自動通報するということですよね。右側には、消火器が格納されているようです。
トンネルの中に設置されている非常電話。把手を開けると、話せるようになっています。
トンネルの外にも、非常電話が設置されています。吉浦側から狩留賀方面に向かう光景。