吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
コロナ禍の緊急事態宣言が解除され、吉浦の街は、おだやかな日々。小学校の東側に大川が流れており、ずっとその上流の空き地では、児童らが自転車乗りを楽しんでいました。
吉浦小学校の体育館の外壁にある校章です。校章の由来については、小学校のホームページに、次のように記してありました。「本校は明治6年、訓蒙舎として創立。同11年、吉浦小学校となる。校章の中央で交差しているのは、ペンと剣。ペンは文化や学問を表し、剣は剛健と正義を示している。外側の円は、文と剛が一体となる理想の姿を描く。大正15年、制定」。
小学校正門の右に大きな体育館が建っています。その白い壁面の上のほうに、校章のあるのが遠くからでも分かりました(吉浦中町)。
吉浦湾の海辺ちかくの吉浦新町を散策していて、おやっ、何だろうと、ひきつけられたのが、奇妙なレリーフでした。抽象的なデザインですが、頭、甲羅、手、足、尾があります。よぉく見ると、亀の浮き彫り、レリーフだと分かりました。
民家の壁の四カ所に、亀がピタッと張りついていました。ム、ム、ム・・・。趣きのある飾りに、行ったり来たりして、見つめました。
こちらのほうも直角な壁の正面と横に、亀のレリーフが二体あるのですが、なにせ雨樋があって、デジカメではちょっと写しにくいものでした。雨樋と壁の間から、亀の足部分が、ほんのちょっとのぞいていました。
家から離れて、全体を見ると、二階建ての軒下の壁に亀が張りけてあることが分かりました。四体を同時に見ることはできません。
亀のレリーフの奥まった壁沿いには、太い文字で、「石油店」とかすれていますが、読めました。昔は、石油の商いをしていたようですね。
すぐ近くに、吉浦湾がありますが、高い防潮堤のため、瀬戸内海は見えません。はるかむこうの島影は、江田島です。
傾斜した棟の妻飾りに、鷹の木彫りが目を引きました。松の枝にとまっている鷹が、いまにも獲物に飛びかからんとする姿には迫力があります。昔から、松に鷹図は吉祥のしるしになっていますよね。50円切手や1000円切手にも松鷹図がありましたし、国宝二条城の障壁画とか、広重の軸絵などを連想させてもくれます。目が鋭く、前方を凝視する雄々しい鷹は、力強さの象徴であり、足をかけている松は生命力の象徴といわれています(吉浦西城町で)
宮川沿いの町家の前を通るとき、鷹に松の妻飾りを見るのが楽しみになります。
街なかを散歩していて、道路に面した土蔵をふと見上げました。白壁の上のほうに、、幾何学的な模様があります。家紋なんですね。風雪に耐えてビクともしない歴史の流れを感じます。家紋のデザインをじっと見ていると、なかなか変化に富んでいて面白くて、そのうえ謎めいているように思えました(呉市吉浦東本町で)。
くだんの土蔵の家紋は、アジサイ号のバス通りで見かけました。今も家紋といえば、羽織や留め袖、風呂敷、ネクタイ、塗りの箱、キーホルダー、湯呑み、額縁飾り、瓦、墓など、まあ、いろんなところに使われます。なかでも、土蔵についている家紋は、なんか由緒あるような気がします。
振り返ってみて、この道は味わいのある通りだと感じました。
羽織や袴、土蔵やちょうちん、墓石などに、紋章といえばよいのか、紋所というのか、定紋というのか、ま、こういうのを総称して、家紋といったらよいのでしょうかね。ネクタイ、風呂敷、指輪などにも、家紋があしらわれているのを見かけることがありますよね。
吉浦中町の路地を散策していると、白壁土蔵の上のほうに、帆掛け船の図案がついていました。家紋って、いわれがあるんでしょうね。帆掛け船をみていると、色んなことを想像して、楽しくなりました。
土蔵の帆掛け船の紋章を見ているうちに、吉浦にはあちこちに土蔵があるから、土蔵にはどんな家紋がついているのか、散策していると、ついつい土蔵を注意して見上げるのがクセになりました。