吉浦ブログ
瀬戸内海に面した呉市吉浦。弥生石器が出土したこの街・吉浦を歩いてみると、昔ながらの人なつっこい人情や情緒を感じます。「かくまでに 思はざりしに 来てみれば いと住みやすき よし浦の里」。この歌は、吉浦八幡神社の山の手の歌碑公園に建立されています。紫式部の父である筑紫守・藤原為時が詠んだ和歌です。いにしえの歌そのままに、今も通じる住みやすき吉浦を、画像で捉えてみました。
ノーベル文学賞受賞作家・川端康成さんの小説「雪国」に、<トンネルを抜けると雪国であった…>なる有名な文がありますよね。吉浦には、雪はほとんど降りません。この「落走隧道」を抜けると、何の変哲もない樹木と霞む山と空でした。
吉浦の山の手から隣町の長谷町に抜けるトンネルができたのは、今から30年まえの1989年のことなんですね。人も車も通れる対面通行のこのトンネルの名称が「落走隧道」。地元の人が行き来するくらいで、交通量は多くありません。(吉浦上城町)。
申し訳程度に、トンネル入り口に、「落走隧道」の小さなプレート板が取りつけてありました。
長さ178.メートル幅員は8.30m。歩道は一段高くなっており、白い鉄製パイプが、人道と車道を分けています。短いトンネルだから、非常電話とか消火器などは備わっていませんが、オレンジ色の電灯が灯っているいたってシンプルなトンネルです。
トンネル付近に、「落走隧道」という乗り合いタクシー「あじさい号」のバス停がありました。
こんもり茂った吉浦八幡神社の社叢では、春四月の第二日曜日に、御霊(みたま)なごめの慰霊祭が行われます。神社の祭主が祝詞を奏上し、参列者は敬虔な慰霊の誠を捧げます。2020年は新型コロナウイルス感染防止のため、中止になりました。(吉浦西城町で)
忠魂碑のまえでは、町民が集うなか、古式ゆかしく厳かに舞いを奉納する巫女。
巫女舞いによる御霊(みたま)なごめは、かつての戦争で散華した英霊をやさしく鎮めます。
中央の忠魂碑は、1956年(昭和31年)10月に建立されました。碑の裏には、満州事変(昭和6年~昭和8年)と、大東亜戦争(昭和16年~昭和20年)の戦病死者396名の名前が刻まれています。左の石碑は、1906年(明治39年)4月に建立された凱旋記念碑。日露戦争凱旋者95名、日露戦争時の留守師団服役者18名、北清事変凱旋者38名、日清戦争凱旋者16名の名前が刻まれています。右側の石碑は、凱旋紀念碑と同時に建立された戦病死者紀念碑。日露戦争戦死者6名、清国事変戦病死者2名、台湾守備病死者1名、日清戦争病死者2名の名前が刻んであります。
クレアラインと並行した汐見橋6号線の県道を散策し、吉浦湾にそそぐ寺山川の渓流沿いを下りていると、比較的新しいコンクリート作りの円筒に蓋がしてある井戸に出会いました。こんな高台でも、井戸があるってことは、吉浦は水脈に恵まれた地だと思いながら、近づいてみました。
高台の駐車場に据えられてあるこの井戸に、二段重ねの鏡もちが置いてありました。水への感謝を捧げるという思いなのでしょうね。蓋の一部は、空気を抜くための穴もありました。
井戸そばの坂道の上方には、クレアラインの高架があり、さらに茶臼山の尾根が見えました。いまの時代、井戸のある光景はほとんどなくなってきましたが、古い吉浦の街ならでは、井戸とを活用する暮があるのでしょうね。
吉浦西城町の高台の路地を歩いていると、注目をひく獅子ふうというかシーサーふうといったらよのか、二体の獣像が門の上に据えられていました。魔除けであり、飾りであり、じっくり見ていると、どこか愛嬌もあるような感じがしました。このような置物は、大体が一対ですよね。吉浦八幡神社の参詣石段の途中には、唐獅子一対があり、境内には阿吽の呼吸よろしく石獅子一対がありますでしょ。民家でこのような巨大な置物をみかけるのは、吉浦ではここのお家くらいではないかと思います。向こうの山は、魚見山。
吉浦の街は、細い曲がりくねった小路とか、坂があちこちにあります。ここは車が通れるところではありません。散策するには、安心して歩けるので、珍獣の置物に出会って、気分さわやかになりました。
吉浦で活躍した人物評伝を知るうえで、よい本に巡り合えました。その本は、呉市芸術文化功労賞を受賞した商工会議所理事で呉市議会議員だった上田繁さん(故人)が出版した「眼鏡橋往来」です。中国新聞に、昭和40年9月から翌年11月まで連載された「眼鏡橋往来」が本になり、読んでみました。出版によせて、呉市長(当時)の奥原義人さんは、「織りなす人間模様に奥深く触れられているので、殊更に興味が深い……呉市の歴史を支えてこられた先人の偉業を学び、新生呉市の街づくりに、新たな意欲燃やすところとなればと、ひたすら祈って止まない次第である」と記しています。
全251頁にわたる昭和49年2月28日発行の「眼鏡橋往来」の目次。そのなかで、「医者」(140頁目)という項目は、100頁を超す内容で、吉浦の医者の活躍など目をみはるものがありました。
手相だの人相だの墓相だの印相、名相、家相だのと、吉凶縁起を気にするのは、いにしえからの智慧なのでしょうか。吉浦の街なかを散歩していると、オヤッと立ち止まって飾り瓦を見ることがあります。 街なかを歩いていると、ついつい屋根瓦を仰ぐくせがつきました。あ、打ち出の小槌だ、シャチかな、鬼瓦だなと、まあ歩くことによって、屋根が語る面白さに引きずりこまれます。松に鷹の飾り瓦に出会ったときは、あまりの鋭さ、迫力に、お、お、おっとたじろいだことでした。(吉浦本町で)
大黒様の飾り瓦。大体、こういう大黒様には、恵比須様も近くにおられますよね。背後の山は、つばくろ山(吉浦中町で)
これまで、ちっとも気がつかなかった屋根瓦に、大黒さまの笑顔を仰ぎ見ました。(吉浦松葉町で)
翁が大笑いしている飾り瓦。快活で健常な表情に、元気がもらえました。(吉浦松葉町で)
鶴の飾り瓦(吉浦本町で)
亀の飾り瓦(吉浦本町で)
怒濤のごとく流れる吉浦大川。中国電力吉浦変電所のそばの光景です。梅雨に入り、雨が降り続き、風が舞っています。濁流の吉浦大川を見ていると、なんだか吸い込まれそうな感じがしました。
大雨のあと、誓光寺に近い川沿いでみた、すさまじい勢いの吉浦大川の流れ。川の段差で、激しい流水の音がひときわ大きく唸っていました。
変電所近くの東清水橋のガードレールに、吉浦大川の名前が記してあります。
中流に立つ大川の「砂防指定地」の表示板。この橋を渡って左側へ行くと、山を越えて隣町の焼山につながります。
鳴滝の清流も流れ込み、段差がいくつもある大川。吉浦には、この吉浦大川を含め12本の川があります。西から①宮花川、②宮川、③西城川、④東宮川、⑤寺山川、⑥吉浦大川、⑦平林川、⑧宇根川、⑨笠岩川、⑩横尾川、⑪神賀川、⑫東川の12渓流。なかでも、この吉浦大川が、わが街では横綱級といえます。
吉浦運動場の細い坂道をへだてた広場に、ストレッチバー、トレーニングベンチ、背伸ばしトレーナー、ぶらさがり器という4基の健康遊具があるので、出かけてみました。体を伸ばしたり、曲げたり、ねじったり…、健康遊具はまさに、呉市保健所の健康増進課が設置したすぐれものであることを体得しました。緑の丸い説明板をじっくり読んで、健康遊具に親しみました(吉浦西城町で)
背筋、腹筋強化器具のぶらさがり器。
身長にあわせて、どちらかのパイプにぶら下がります。年齢と体力によりますが、およそ30秒か60秒のあいだ、ぶらさがって背筋を伸ばします、と説明が記してありました。
全身強化器具のストレッチバー。
自分の高さに見合ったバーを握り、自由な姿勢でストレッチ運動を行います、と記した説明板。
背筋・柔軟性強化器具の背伸ばしトレーナー。
両脇のバーをつかんで、背伸ばしを行います。背筋増強と柔軟性向上の効果があります、と記した説明板。
腹筋・頚部強化器具の多目的トレーニングベンチ。
あお向けに寝そべっての腹筋や首伸ばしなど、多目的に運動が行えます、と記してあります。
「吉浦運動場で健康づくり。健康遊具で健康寿命を延ばしましょう」と呼びかけるチラシ。吉浦まちづくりセンターの体力測定教室でもらいました。
健康遊具がある広場から望んだ吉浦の街なみ。大麗女島と小麗女島が吉浦湾に見えます。眼下にひろがる光景を眺めていると、心が癒され、目の疲れもとれ、眺望も健康遊具?と感じました。
呉市の吉浦小学校の児童が描いた書写や絵画が、吉浦まちづくりセンターで、毎年秋に、二日間にわたって展示されます。わが子の絵を見に来た夫婦は、「こんなによく描けてるとは思わなかった」と、感心の声をアンケートに寄せています。(吉浦東本町で)
丹精込めて描いた作品群は、鑑賞者の心を引きつけます。
描く発想と観察力を称賛するささやきが聞こえた。
「描いた児童が、芸術家として活躍するかも知れないね」と小声で話ながら作品を丹念にみて廻っていた。全国展は、静岡県熱海市にあるMOA美術館で催されるという。
MOA美術館が所蔵する国宝の尾形光琳「紅白梅図屏風」と、野々村仁清「藤花文茶壺」の縮小レプリカが、会場の一角にあり、訪れた人がゆっくり眺めていた。
吉浦側の魚見山トンネルの近くに、パネルと写真が掲示してありました。魚見山トンネルの補修工事に関するものでした。長い歳月を経ているトンネルだから、剥落のおそれと、漏水のおそれがあるということで、剥落防止対策工と漏水対策工をしている、と表示してありました。
漏水対策工では、削岩機のような重機で、トンネルの壁に穴をあけ、水を抜いている光景が写っていました。
補修工事をしていない時は、当然のことながら通行できる魚見山トンネル。長さ860メートル。幅員6.80m。
このトンネルは車が走行すると、音が出ます。吉浦側のこの入り口から、トンネルの半分まで道路に刻みがいれてあるからです。スピードだせば、音はビーンと鳴りますし、通常走行速度では、ぎゅーんという音が、タイヤを伝って運転手に聞こえてきます。音の出る道路ってのは、ほかにもあるのでしょうか。
呉市のシンボル花の「つばき」が、葉は緑、花は赤という色付きでトンネルを飾ってあり、「魚見山隧道」とトンネルの名称が、右から左に横書き表示してありました。昔はトンネルといわずに、隧道と言っていたんですね。
この魚見山トンネルは、昭和22年10月にできたことが分かります。
国土交通省、呉国道出張所の広報・第19号「くれこく」。魚見山トンネルが14~5年のペースで換気設備工事が行われることがわかりますね。
俗に、長寿の象徴として、古来から「鶴は千年、亀は万年」といわれています。なかでも、鶴は、折り鶴、千羽鶴で知られ、瑞鳥・瑞兆と尊ばれていますよね。祝福、病気平癒、見舞いなどに、いろんな使い方をされています。めでたい鶴を帯状の飾り瓦にした塀を、吉浦の「あじさい号」バスの通り道でみかけました。(呉市吉浦松葉町で)
下が石垣塀、上が赤レンガ塀、その中間に鶴をデザインにした飾り瓦が帯状にはめてあるユニークな三位一体の塀を見て歩くのが面白い。
堅い守りの象徴であり、長寿をあらわす吉兆と縁起物の亀。長い尾がついており、いかにも長生きの主としての存在感を感じながら、見歩くのが楽しい。
街なかを散歩していて、道路に面した土蔵をふと見上げました。白壁の上のほうに、、幾何学的な模様があります。家紋なんですね。風雪に耐えてビクともしない歴史の流れを感じます。家紋のデザインをじっと見ていると、なかなか変化に富んでいて面白くて、そのうえ謎めいているように思えました(呉市吉浦東本町で)。
くだんの土蔵の家紋は、アジサイ号のバス通りで見かけました。今も家紋といえば、羽織や留め袖、風呂敷、ネクタイ、塗りの箱、キーホルダー、湯呑み、額縁飾り、瓦、墓など、まあ、いろんなところに使われます。なかでも、土蔵についている家紋は、なんか由緒あるような気がします。
振り返ってみて、この道は味わいのある通りだと感じました。
呉市吉浦の神賀川は、魚見山を源として、吉浦湾に注ぎこみます。緩やかな流れや、急傾斜の流れや、段差のある流れなど、川べりを散策するのが、楽しくなります。中流のこのあたりは、川底に整然と石が組まれており、その両横も石垣がほどこしてあり、気持ちよさを感じます。向こうの山は、つばくろ山。
吉浦新出町の奥まったあたりに、呉市吉浦墓地と誓光寺墓園があり、その最奥に神賀川の表示板が立っています。ここらあたりが神賀川の源流であることが踏査して分かります。表示板のそばに、赤枠で記したもうひとつの鉄製看板が立っていますが、表面が風化して、文字はまったく判読できませんでした。
急流をゆるやかにするために、石段で段差をつける工夫がなされています。傾斜地ゆえの段々になって流れる上流付近の神賀川。
二種類の「急傾斜崩壊危険区域」の表示板が、神賀川の中流沿いに建てられていました。いずれも、新出・神賀地区と記されています。
下流近くでは、神賀川に橋をかけ、車が数台、間隔をあけて停めてありました。川上は、絶好の車庫なんですね。
鉄板で覆った橋や、コンクリートの橋、また家並みを歩きながら見る景色は、味わいがあります。
神賀川の下流では、川の両側が車道・人道になっています。
この時期の上流では、鮮やかなアジサイを愛でることができました。
吉浦東本町の山の手に、すべり台や鉄棒を備えたチビッ子広場という公園があります。そこは三差路になっており、東側の山の斜面に、太い木の模様をかたどったコンクリート木目の段々道があります。ゆっくり、のんびり上がって行くと、視界が広がります。人も上れば、イノシシも上るのでしょうか。天に向かっての一本坂を歩くと、しんどさはあるものの、上りつめたら、気持ちのよいものです。
登り口に、黄色の看板があります。「適正狩猟、脱包の励行、転倒注意、矢先の確認、銃の管理の徹底」と記してありました。な、なんとも物騒。この看板は、広島県猟友会と広島県鉄砲保安協会のものであることが分かります。メインはイノシシ対策なんでしょうね。
イノシシが出没するかも知れないと思えば、このまっすぐな坂階段を上がるのは、あまりいい気持ちがしません。吉浦の山の中では、ところどころで、イノシシの捕獲ケージを目にすることがあります。
畑のまわりには、イノシシが作物を喰い荒らさないように、鉄柵を
施している光景も目にします。
国道31号線の下を流れる神賀川に神賀橋がかかっています。「神賀橋」と記したこの親柱は、少し傷つき、欠けていました。
吉浦東本町の海寄りからみた親柱には、「志んがはし」と刻まれています。よおく見ると、な、なんと、「志」に濁点がついています。こんな字は、学校で習っていません。広辞苑の辞書にも載っていません。「じ」と読ませる、ま、あそび心というべきか。当時のお役所もオツなことなさる。
吉浦東本町側からみた神賀橋の親柱。「昭和14年12月竣工」と記してあり、相当な歳月を経た橋であることが、実感できました。橋の上には、吉浦横断歩道橋がかかっています。
「神賀橋西詰」と、橋の名前が表示されている国道31号線の信号機。
トラック、乗用車、バス、タクシー、バイク、パトカー、救急車、消防車、さらには地元の人などが、国道31号線にあるこの「吉浦隧道」を往来します。トンネルの長さ283.4メートル。幅員6.80m。広島・海田方面から吉浦の街に入る狩留賀町側からのトンネル光景。このトンネルを抜ければ、ロマンあふれる吉浦の街に入ります。
格調ある書体で「吉浦隧道」と記してあります。いまでは、隧道なんて呼びません。トンネルと表現しますよね。古き時代は隧道というのが、あたりまえのことでした。「昭和九年五月」と「吉浦隧道」のそばに刻してあります。
このトンネル入り口には、非常用施設として「押しボタン発信器(事故と火災)」、「非常電話」「消火器」が設置してあります、という説明板。
トンネル内にある非常通報装置の「事故」の押しボタンと、「火災」の押しボタン。あわてずに使い分けをすることになっています。ボタンを押せば、赤ランプが点滅し、関係機関に自動通報するということですよね。右側には、消火器が格納されているようです。
トンネルの中に設置されている非常電話。把手を開けると、話せるようになっています。
トンネルの外にも、非常電話が設置されています。吉浦側から狩留賀方面に向かう光景。
今からおよそ2300年前から1700年前の弥生時代、この地上では、どんなことがあったのでしょうね。弥生時代のことです。紀元前10世紀頃から紀元後3世紀中頃までにあたるこの弥生時代に、吉浦で生活が営まれたことを示す貴重な石器が出土しています。呉市吉浦東本町の吉浦まちづくりセンター2階の常設ウインドーには、吉浦で発見された弥生式石器の出土品が無料展示されています。これはもう、必見の値打ちがあります。
吉浦東本町で出土した弥生石器の磨製石斧と説明文(吉浦まちづくりセンターで常設公開)。こうしてみると、太古から呉の吉浦は、住みやすい所であったことが想像できます。はるかなるロマンの町であることが、弥生式石器から伝わってきます。
吉浦中町で出土した弥生時代の石斧(吉浦まちづくりセンターで常設公開)。
弥生石器が展示されている吉浦市民センター(吉浦まちづくりセンター)
呉市制100周年記念版の「呉の歴史」(呉市役所・平成14年10月1日発行)の巻末年表には、弥生時代後期に、「呉市吉浦潭鼓町石場より弥生式土器破片出土」と記してあります。
また、この弥生時代に、「呉市吉浦町東本町2丁目より石斧出土」とあり、さらに、「呉市吉浦町中町2丁目より石斧出土」と明示してあります。
青空のもと、ピンク、みどり、青のまあるい大きなプレイ・パラシュート・バルーン(パラバルーン)を、呉市・吉浦の「みのり幼稚園」園児が、しっかりと掴み、軽快な音楽に合わせて、大きくふくらませました。揺らしながら、中に入って縮ませたりと、とてもかわいく華やかな演技。幼稚園の運動会の一コマです。令和2年の幼稚園運動会は、新型コロナウイルス感染防止対策のためにありませんでした。一生懸命にチャレンジする園児らの運動会を楽しみにしています。(吉浦西城町の運動場で)
「そ~れ、あそこまで走ろうね」「そう、そう。手を振って、上手よ」。先生の励ましで、かけっこが進みます。
愉しい音楽が流れるなかで、手をあげたり、おろしたり・・・。園児らのお遊戯マスゲームに、ほのぼのとしたものを感じます。
「あっ、ママ、ころんだ」。ほかの園児も、心配そうに見つめていました。でも、すぐに起き上がって走りだしました。頑張る、という気持ちが、園児たちの体を包んだことでしょう。
JR吉浦駅前から隣町の焼山へ行く県道278号線の吉浦・鍋土峠で、棚田を見ることができます。棚田のいちばん下の段は、睡蓮の池。今がちょうど見ごろ。いくつもの赤い睡蓮が目をひきつけます。
佛様の台座を思わす鮮やかな赤い睡蓮を見つめていると、心が洗われ、清らかにしてもらえるような、いい気持ちになりました。
おたまじゃくしもいました。耳には、ここちよいカエルの声も聞こえて、のどかな田園の風情が楽しめます。
道路脇の睡蓮の池から上の棚田には、稲穂になる苗が天をめざして、すくすく育っていました。
睡蓮池と棚田に向かう途中にある広島県道278号線の道路標識。県木の赤い紅葉のデザインが印象的。右の画像は、278号線・焼山吉浦線の道路沿いに立つ「鍋土峠」の表示板。
呉市の吉浦中町には、恵比須神社があります。小さな神社ですが、地域住民は商売繁盛、開運、豊作大漁などの守護神として敬っています。大体が吉浦という地名が示すように、もともと海に縁のある街なので、民家の塀の上に鯛をもった恵比須さんの飾り瓦などをみかけることもあるほどで、中町の恵比須神社は、古くからこの地に祀られています。(吉浦中町で)
石鳥居の島木(とりき)と貫(ぬき)の間に掲げられている額束(がくつか)には、青銅製で「恵比須神社」と記してあります。
石鳥居の柱には、「昭和二十五年四月吉日」と刻んであるから、この鳥居の奉献した時期が分かります。
秋の恵比須祭りには、吉浦八幡神社の宮司を迎えて、御饌御酒(みけみき)をはじめ、熊手などをお供えし、厳粛に祭事が執り行われます。
秋祭りの沿道には、タコ焼きやビールやうどんなどのコーナーが設けられ、おさがりのご神酒がふるまわれます。ビンゴゲームで景品がもらえるとあって、祭典のあとは、長蛇の列。
恵比須神社通りの民家のベランダからは、餅まきがあり、これを楽しみに老若男女で賑います。
数年前は表示板が苔にや湿った埃で文字が風化・劣化し、何が書いてあるか読めませんでした。新しくなって、「砂防指定地 土石流危険渓流 東宮川」と、はっきり読め、気持ちいい立札になりました。上流は、クレアラインと市道の汐見橋6号線の下を流れ出てきます。左の石段をあがって行くと、吉浦駅と天応を往復するアジサイ号のバス停「上城町」があります。
東宮川の表示板は、住宅地の沿道一カ所だけにあります。吉浦上城町で。
東宮川は、吉浦のなかでは急傾斜渓流の5指に入ります。左手奥のほうには、うっすらとかすむ江田島の山並みが望めました。もっと晴れていたら、瀬戸内海の一部もみることができます。コンクリート沿いを流れてきた東宮川は、主流の宮川に合流します。
川沿いには、手すりが途中までついています。左手には、斜面に桜の大木があり、季節になると桜花爛漫の見栄えがする呉拘置支所の建物があります。